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【台湾紀行】合歓山越嶺古道

【台湾紀行】合歓山越嶺古道
西豊穣

<中部横貫公路と合歓山越嶺古道>
以前投稿した「関山越嶺古道」の冒頭の部分で、台湾の脊梁、
雪山山脈と中央山脈を東西に横断する山岳自動車道路は「横
貫公路」と呼ばれ、以下の三本があることを紹介しました(註1):

「北部横貫公路(通称「北横」)」=省道7号線(雪山山脈横断、区間:桃園県大渓−宜蘭市)
「中部横貫公路(通称「中横」)」=省道8号線(中央山脈横断、区間:台中県東勢−花蓮県新城)
「南部横貫公路(通称「南横」)」=省道20号線(中央山脈横断、区間:台南市−台東県海端)

以上の三本の自動車道路建設の際ベースになったのは、日
本時代の原住民族に対する警備道(「理蕃道」)で、これら元
警備道は今は北から順に、角板山古道、合歓山越嶺古道、
関山越嶺古道と通称されています。

今回紹介する「合歓山越嶺古道」イコール「中横」は実は非常
にざっくりした言い方です。中横本線、即ち省道8号線は、上
述のように台中県東勢を起点にし、大甲渓沿いに北上、同県
梨山から東上、中央山脈を横断し、8号線の最高地点、大禹
嶺(標高2,565メートル)に至り、その後、タロコ(大魯閣)渓谷
に向かって急激に高度を落としながら、最後は花蓮県新城、
太平洋岸に至ります。最高点で8号線を東西両段に分けると、
大甲渓に沿った西段の大部分が嘗ての「大甲渓警備道」、東
段が最初は「合歓連絡道」と呼称され後に「合歓越道路」と改
められた現在の合歓山越嶺古道に相当する段になります。つ
まり現在の中横本線は日本時代の二本の主要警備道がベー
スになっているというのが正確な言い方です。

更に、本線以外に二本の中横支線があります。一本は梨山か
らそのまま北上、中央山脈と雪山山脈の鞍部に沿い、やがて、
北横と合流、最後は蘭陽渓沿いに宜蘭市に至る省道7号甲線、
通称中横宜蘭支線です。もう一本は、南投県霧社から北上、
台湾のスイスの愛称のある清境農場を経由し、台湾自動車道
最高所の武嶺(標高3,275メートル)を越え、大禹嶺で本線に出
会う区間で、省道14号甲線、通称中横霧社支線です。

最高点である武嶺は、合歓山主峰(同3,417メートル)と東峰(
同3,421メートル)の鞍部であり、ここより標高の高い場所は日
本なら富士山しかありません。今は武嶺と呼ばれていますが、
嘗ては、「佐久間峠」或いは「佐久間越え」と呼ばれていた場
所です。後述する「タロコ戦役」(註2)の軍司令官として出動し
た第五代台湾総督、佐久間左馬太に因んで名付けられたもの
です。

合歓山越嶺古道は、西側は霧社を発し、佐久間峠を最高点に
して、東側起点である、タツキリ(立霧)渓が刻んだ壮大無比
の天嶮、タロコ渓谷入口を結ぶ約120キロの区間です。現代の
自動車道である中横霧社支線(48キロ)プラス中横本線東段(
70キロ)は、おおよそ嘗ての古道に沿っていると言っても差し
支えありませんが、もう少し細かく見ると、以下の三区間に分
けられます:

1) 霧社支線から中横本線畢緑(ひつりょく)神木サービス
エリア付近までは、当時の合歓山越道路をほぼ踏襲した区
間です。この区間に日本時代に設置された駐在所や宿泊地
の跡地(註3)は現在の自動車道脇でその殆どを確認出来ま
す。

2) 畢緑から、タロコ峡谷内最大の宿泊・サービスエリアが
ある天祥(日本時代はタビト社)までの区間は、中横と古道
が大きく乖離している部分で、中横建設時、現在は林務局
が曲流掘鑿古道(註4)と呼ぶこの部分の古道の崩壊が激
しく、古道を大きく迂回して中横は建設されました。この段の
古道沿線にはタロコ戦役時、犠牲になった日本人軍人・警
官の集合墳墓(台湾側では「日軍墓葬群」)等、当時の遺跡
がいまだに残存しています。

3) 現在のタロコ渓谷観光の最大の見所が集中した部分で、
大魯閣国家公園ビジターセンターがある峡谷入口から天祥
までの区間には、同時に、一般ハイカー向けに整備・開放さ
れた合歓山越嶺古道の核心部が存在しますが、自動車道
たる中横建設のベースになったのは、旧警備道ベースの合
歓越道路ではなく、1939年(昭和14年)、タツキリ渓で砂金
が発見されてから開鑿が開始された採金・発電用自動車道
(註5)です。警備道ベースの合歓越道路は渓谷底よりはる
か上方に開鑿されており、自動車を通すためには不向きだっ
たからです。

中横建設にも若干言及しておきます。正式には「中部東西
横貫公路」、或いはタロコ渓谷に入る場合、まず出迎えられ
る朱塗りの華表(門柱)に大書きされているように「東西横貫
公路」と呼ばれた中横全線の建設は、冒頭で紹介した三本
の横貫公路の中では最も早く、1956年7月に開始、「中華民
国」国軍退役軍人(註6)を主力に1万余人を投入、200余人
の殉職者を出しながら、1960年10月完工という一大国家事
業でした。中横建設に於ける最大の難関部分は、タロコ峡谷
入口から天祥までの約20キロ区間だったそうですが、当時の
基本工法は爆薬と鑿(のみ)・斧(おの)に頼る文字通りの人
海戦術だっただけに、現在は人力で削り出され岩盤が露出し
た道路沿線の人工景観と、タツキリ渓の大理石岩盤に対する
自然工法のコントラストが同公園内の最高の魅力の一つとなっ
ています。

以下、記事中で記述する中横とは、特に断りのない限り、合
歓山越嶺古道に相当する本線並びに霧社支線を指すことに
します。

<「合歓」の由来>
日本時代の読みは「ごうかん」、日本では「合歓(ネム)の木」
との関連で説明される場合もありますが、これら二者は明らか
に関係がありません。「合歓山」は日本統治が始まる以前か
ら中国の台湾地方誌に記載がありましたが、その位置が現在
の合歓山と異なる為、由来に関しては諸説あり、現在まで確
定したものはないようです。台湾地名研究のパイオニアである
伊能嘉矩(いのう・かのり)や阿倍明義の著書でも考証があり
ません。合歓山群峰は幾つかの大河川、例えば、南下して台
湾海峡に流れ込む濁水渓や大甲渓、東進して太平洋に注ぐタ
ツキリ渓、の本流、支流の分水嶺ですが、嘗てそれらの内主
要な五本を総称して「五港泉」と呼んでおり、五港の台湾語発
音〔ゴオカン〕を日本漢字音訳したのではないかという説が現
在の台湾では流布しています。

<東西を繋ぐ古道の人文的な景観>
中横、即ち、合歓山越嶺古道は、現在の行政区画では西側の
南投県と東側の花蓮県を繋いでいます。又、太魯閣国家公園
のほぼ中央部を東西に横断しています。同公園内西側の合歓
山群峰に代表される自然景観を静の景観とすれば、タロコ渓
谷は動の自然景観と呼べるかもしれません。これは偶然そう
なっているというのではなく、既に1937年(昭和12年)、同地域
が国立公園(註7)に指定され、理蕃道路と沿線の宿泊施設の
整備が進み、観光道路としての装いを整えていったというユニー
クな背景があるからです。

「古道」という呼称は多分に人文的ですが、海抜ゼロから数時
間の内に三千メートルを越える中央山脈を東西に横断する自動
車道たる現在の古道を車で走り抜ける時、人文的な背景をも
念頭に置きながら往来する観光客は非常に少ないと思います。
台湾を代表する二つの大自然景観の真っ只中に自動車道が築
かれ、それら自然景観は余りにも圧倒的だからですが、東西の
「繋ぎ」を人文的な観点から見ると以下のような関係が浮かび
上がってきます。

東側花蓮県側に集中しているタロコ族は従来タイヤル族として
ひと括りにされていましたが、長年に渡る正名運動の結果、
2004年に12族目として認定されました。他方、やはり同じくタイ
ヤル族と看做されていた西側南投県側のセデック族は、2008年
に第14族目の台湾原住民族に認定されました。セデック族は
タクダヤ、トゥダ、タロコ(註8)の三グループがあり、中央山脈を
越えて花蓮県側に移住した中で、タロコが最大勢力になったと
いう歴史的な経緯があり、本々は南投県側のセデックと出自は
同じとされています。

この関係はそのまま、日本統治時代の台湾総督府対台湾原住
民の抗争中、歴史的大事件として尚研究され続ける東側のタロ
コ族のタロコ戦役と西側のセデック族の霧社事件(1930年、
昭和5年)に繋がります。実際、太魯閣国家公園管理処が同公
園の紹介において他の台湾の国立公園との違いとして強調して
いるのは、自然景観と人文景観の融合という点です。

昨年2010年は、霧社事件80周年ということで映画、講演、展示
会、出版等を通じ様々な角度で論じられたこともあり、合歓山越
嶺古道との関係では、以下、合歓山越え軍用道路とタロコ渓谷
内の錐麓(すいろく)古道にスポットを当てて紹介します。

<合歓山とタロコ戦役軍用道路>
霧社側から合歓山越えを目指す場合、まず、太魯閣国家公園
の境界碑と昆陽派出所(日本時代の合歓山駐在所跡)に至る
と眼前を遮るような勢いで合歓山東峰の大きな塊が飛び込んで
きます。その先の武嶺まで至ると、氷河遺跡(註9)を覆う低い笹
(玉山箭竹)の緑の絨毯がうねるように何処までも広がっている
様に圧倒されます。その絨毯の広がりを単調に感じさせないよ
うに巧みに配された針葉樹(台湾二葉松、台湾冷杉)とのコント
ラストが織りなす自然の造形は素晴らしく、春には、まずツツジ
(紅毛杜鵑)、その後、シャクナゲ(杜鵑)が咲き乱れます。

台湾の百名山、「台湾百岳」登山は台湾人ハイカーの目標、合
歓山群峰はその美しさだけではなく登山経験がさほど無くても
短時間で登れてしまう簡便さゆえ、百岳登山の入門コースとし
て人気があります。実際、合歓山主峰と石門山(標高3,237メー
トル)は登山客のみではなく一般の観光客にも開かれた百岳で
す。主峰ならコースにも依りますが1時間弱、石門山は15分程
度で頂上に立てます。石門山を百岳中、最も簡単に登れる山た
らしめているのが中横で、合歓山主峰、東峰、石門山に加え、
北合歓山(同3,422メートル)、西合歓山(同3,145メートル)の五
峰全部を二日間で登攀出来ます。

台湾人にとり、合歓山が殊のほか特別なのは、冬季の積雪で
す。年々降雪量は減る一方なのですが、必ず冠雪します。なに
しろ嘗てはスキー場があったぐらいです。又、自動車道脇に落
ちる小さな沢が氷結してちょっとしたアイスクライミングが楽しめ
るのではないかと思える程です。北回帰線が国土のほぼ中間
を横断し、緯度上は南半分が熱帯に属する台湾で、重装備で
登山する必要もなく本格的な雪山を体験出来るのは、誠に驚く
べきことで、それを万人に可能ならしめているのが中横です。
台湾を南北に貫く二本の高速公路(道路)のうち、東側の3号
線と埔里の間が8号線で結ばれ、西側からの霧社、清境農場、
そして合歓山方面へのアクセスが飛躍的に便利になりました。

ところで、合歓山主峰への登山口は三か所あり、一箇所は武
嶺の駐車場裏手からそのまま直接頂上を目指します。もう一
箇所は昆陽派出所の中横を隔てて向かい側から主峰へ至る
稜線上沿いに歩く方法(その途中に三か所目の登山口あり)
で、その踏み後は、昆陽側、武嶺側双方から明確に見て取れ
ます。この段がタロコ戦役時に開鑿された合歓山越えの軍用
道路です。佐久間峠を越えて主峰と東峰の鞍部を降り切った
場所にあるのが合歓山荘(日本時代の石門駐在所跡地)、そ
の隣に国軍冬季訓練センター(「寒訓中心」)があります。これ
は、佐久間軍司令部跡地を襲ったものです。

尚、タロコ峡谷内にも当時の軍用道路が整備され一般の観光
客に開放されている歩道があります。中横が天祥を過ぎて本
格的に高度を上げ出すと、天祥一帯を一望出来る中横脇に
「豁然亭」という展望台が設けられています。その展望台と天
祥との高度差が約300メートル、ここが一気呵成に天祥に向
かって文字通り駆け降りるように開鑿された段で、今は天祥
歩道と名付けられています。残念ながら、2009年の八八水災
(モーラコット台風)は、この嘗ての軍用道路の下半分を完全
に崩壊させてしまい、今歩けるのは上段のみになりました。

<台湾古道の白眉=「錐麓断崖道路」>
視力に自信があれば、タロコ渓谷内の観光スポットの一つ、
九曲洞付近から対岸の絶壁の遥か上方に目を凝らすと、微か
に道らしきものが見えます。但し、それが垂直の断崖を横断し
ている道路であることを認識する為には、実際そこを歩いて見
なければなりません。或る台湾人に、アメリカのグランドキャニ
オンなんかに行く必要は無い、台湾にもグランドキャニオンが
あると言わしめたのが、錐麓断崖を代表とするタツキリ渓の両
岸に立ちはだかる大理石の絶壁なのですが、グランドキャニオ
ンに居る気に浸るのであれば、やはり断崖上方から見下ろす
必要があります。それを唯一可能にしている場所が、合歓山
越嶺古道の核心部にして台湾古道の白眉である、断崖道路。
今は錐麓古道と通称されている段です。現代台湾では「天空
歩道」とか「天下第一道」などのニックネームが冠されていま
す。

錐麓とは三角錐山(標高2,607メートル)の麓(ふもと)という意
味です。タロコ戦役の時に軍用道路として開鑿が開始され、
一旦1915年(大正4年)に完工。その後、大規模な崩壊が起こ
り、1926年(昭和元年)に再整備されました。今に残る古道は
この1926年再完工のものです。

国家歩道として一般のハイカーを対象に整備された錐麓古道
の総延長は10キロ強。中横と古道との落差500メートル。古道
自体の海抜は750〜780メートル。錐麓断崖自体の段の総延
長は約500メートル。一般開放されたのが僅か三年前の2008
年7月です。以前から登山者、研究者に依り入山、踏査はされ
ていましたが、危険極まりない為、林務局と国家公園管理処
が長年を費やし調査・整備を繰り返してきたものです。

タロコ渓谷内の他の歩道を歩くのに予め許可証を取得する必
要はありませんが、錐麓古道を歩く為には入園証と入山証の
二つを予め取得する必要があります。前者は太魯閣国家公
園管理処の専用ウェブサイトから簡便に申請できますし、後
者はタロコ峡谷入口脇にある国家公園ビジターセンター内の
警察署で当日取得が可能です。但し、安全対策と環境保全
対策の両方を意図し、毎日の入山者数を制限しており、平日
の場合48人、休日だと72人という厳しい枠が設けられていま
す。

以前、八通関古道に関する記事投稿の中で、父子不知断崖
の一段を紹介し、高所恐怖症の人はまず歩行不能と書きまし
たが、実際は断崖面を見ずとも歩けるぐらいの道幅と、まだま
だ断崖自体にスロープがあるのですが、錐麓古道の方は完
全に垂直な断崖面を開鑿、特に錐麓断崖自体の段は道幅も
90センチ程度、しかも道路側面の開鑿された山側以外は全く
視界を遮るものがありません。中横が足下に見えていますの
で、相当な恐怖感が募ります。以前は崩壊部が多く、現在整
備された段を歩き通すのに数日を要していたのですが、今は
ゆっくり歩いて片道5〜6時間あれば十分です。

今現在開放されている段は、東側は燕子口のタロコ峡谷入口
側、西側慈恩橋の間で、東から西に向かいゆるやかに下って
おり、又、慈恩橋から森林部、崩壊部を経て古道に往き合うま
ではかなりの急登を強いられますので、燕子口からの入山を
薦めます。その際の錐麓古道の残存している日本時代のラン
ドマークを中心にしたコースは以下の通りです。どちらから入山
しようが、古道に出会うまでの一時間前後の急登を凌いでしま
えば後は殆ど平坦ですので、特別な登山技術、装備は必要あ
りません。

燕子口→錐麓吊橋→バタカン駐在所跡→バタカン二号吊橋→
一号トンネル→二号トンネル(地蔵菩薩+大正時代の日本人
落書き)→[錐麓断崖]→断崖駐在所跡→「故花蓮港庁巡査班
長持舘代五郎之碑」(殉職碑)→錐麓駐在所跡→慈恩橋

燕子口入口には緑色の鋼鉄製吊橋が掛かり、タツキリ渓を対
岸に渡ります。この吊橋は錐麓吊橋という名前が付けられてい
ますが、同地上方に日本時代、合歓越道路がブロワン社とバ
タカン社を結ぶ目的で山月橋(註10)が掛けられていたので、
新山月橋とでもしておけばよかったかもしれません。吊橋を渡
り切ると、半時間足らずの急な登りの後、まずバタカン駐在所
跡に出ます。広々とした空地で、当時はバタカン倶楽部という
宿泊施設もありました。当時のコンクリートの門柱がそっくり残っ
ており、しかも、よく紹介される当時の写真に写る「花蓮港庁研
海支庁バタカン警察官吏駐在所」の木製表札を掛けていた鉤(
かぎ)もそのまま残っているので、同じ表札を拵えそこにそのま
ま掛ければ当時の有様が髣髴とするような錯覚に襲われるぐ
らいに、駐在所跡地は奇麗に残っています。その後、断崖駐
在所跡、錐麓駐在所跡と日本時代の遺跡を通過し、最後は従
前の古道が大きく崩壊した岩石地帯に出て急下降、渓谷に磨
かれた目が痛くなるぐらいに真白な大理石がごろごろしている
河原が現れ、やがて慈恩橋上方に出て、そのまま中横脇の休
憩所に出ます。

もし運よく台湾が世界遺産登録申請を認められるであれば、タ
ロコ峡谷自体は「自然遺産」として一番に申請されるのは間違
いありません。同時に、錐麓古道は「複合遺産」つまり自然遺
産プラス人文遺産として、真っ先に申請されるのではないかと
思います。

この全世界でも稀有であろう古道を実際に歩くハイカーの胸に
は様々な思いが去来するでしょうが、筆者自身が最も感動した
のは、一般のハイカーが安全に歩けるようになるまで調査と整
備を繰り返した林務局の努力に対してです。台湾で一箇所だ
け日本人が訪ねるべき場所は何処かと訊かれれば、筆者は
まず錐麓古道を推薦します。

錐麓古道は総延長16キロという説明をよく目にしますが、上述
のように、実際は10キロ強、これに緑水合流歩道1.5キロ、そ
れに続く文山歩道(註11)4キロを加えた段を指しているようで、
これらは確かに錐麓古道の延長です。後者は八八水災以降立
ち入り禁止になっていますが、前者は非常に短い段にも拘わら
ず、当時の合歓越道路の特徴を色濃く残したミニ錐麓断崖道路
とも呼べる段です。中横の二つのサービスエリア、合流と緑水
を結ぶ形で整備されており、自動車道からの高度がそれほど乖
離しておらず、且つ平坦な為、誰でも気軽に散策が楽しめます。
合流側に大正年間に殉職した四人の警官の「弔霊碑」(註12)
も残されており、古道の性格をよく伝えています。

<最後に>
錐麓古道の存在を知り、或いは実際そこを歩いてみる機会に恵
まれれば、誰でもが、何故このような場所に道を切り開かねば
ならなかったのか?という至極当然の疑問を持ちます。当時の
台湾総督府の五箇年計画理蕃事業の名を借りた「生蕃討伐」
の暴力性と徹底性の証しであるということは多分間違い無いと
は考えますが、それでも前述の疑問には答えていません。

筆者も錐麓古道を実際歩いた際、又、この投稿を書き起こした
時点では適当な言葉が見付からなかったのですが、採金道路
に関する情報を集めている最中に想起したことは、断崖とか天
空という表現は、自分の足元がしっかりしている状態、つまり現
在の自動車道、中横に依りながらの話で、明確に意識はしてい
ませんが、それを当然だと考えているからです。垂直の断崖の
真ん中に高度500メートルの道を付けることは非常識の極みと
いうわけです。

但し、当時管制対象の原住民集落が存在していた高度、開鑿
当初の情勢、タロコ峡谷内の地形を勘案した時、統治する日本
人の立場からは、恐らくは今に残る場所以外オプションが無か
ったのではないかと推察します。逆に、タロコ峡谷内の今中横
が通っている場所に当時道路を開鑿することは、非常識極まり
ないことであったことは、今現在峡谷内の観光スポットを訪ね
歩けば誰でも感得できますし、前述したように中横建設の最大
難所だったわけです。当時の日本人にそこに自動車道を通そ
うという動機を齎したのは、金が発見されたからに他ならない
のではと筆者は想像するのです。

最近のタロコ渓谷景観の一大変化は、週末、祭日に関係なく
続々と観光バスで乗り付ける中国人観光客です。渓谷入口か
ら天祥までの間の道路・観光関連設備はバイパスの敷設、橋
梁の改建等、どんどん整備が進んでいますが、明らかに中国
人観光客を意識したものだと思います。一昨年の旧正月に花
蓮から合歓山越えで高雄に戻ろうとしたら、筆者の運転する
一般車両はタロコへの侵入禁止、代わりに殆どが中国人観光
客で占められるはずの観光バスを優先して渓谷内へ誘導して
いる場面に出食わし、仰天したことがあります。中横開闢の実
際の意図を考慮すると、押し掛ける中国人観光客は、なかな
か興味ある現象です。

中横開通から既に50年、主に台風の影響で崩壊してコースを
変えた部分が出始めています。遺棄されたオリジナルの舗装
道路はやがて古道の扱いを受けるかもしれません。それでも、
日本時代に開鑿された合歓越道路の生き残り部分は、台湾
人が台湾の歴史に興味を持ち続ける限りに於いては、保存さ
れ、かつ歩き続けられるでしょう。(終わり)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
(註1)「省道」:本来は「国道」と称すべきものだが、行政院交
通部は未だに変更していないので現在の呼称に従った。現在
の台湾で「国道」とは高速公路(道路)に対する呼称である。

(註2)「タロコ戦役」:新城事件(1896年、明治29年)を皮切り
に頻発することになった台湾総督府とタロコ族の武力衝突は、
台湾側では太魯閣事件と総称されることもあるが、これらの
一連の事件は第五代台湾総督佐久間左馬太による五箇年
計画理蕃事業(1910年、明治43年〜1914年、大正3年)発令
の導火線になり、最後は、佐久間自身が軍司令官として出動
した実際上はタロコ族掃討作戦は、「太魯閣(蕃)討伐」とか
「太魯閣(蕃)征伐軍事行動」とか色々な言い方がされている。
当時の日本では「討伐」の方が多用されたようだ。台湾では
「太魯閣抗日戦役」と呼ぶ場合もある。歴史的な背景を考える
と「討伐」や「征伐」という単語が適当とは思われないので、本
投稿の中では「タロコ戦役」で統一することにした。軍隊とは別
に警察隊も組織され、その隊長には当時の民政長官、後の第
9代台湾総督内田嘉吉が就いた。軍隊は合歓山越えで東進、
警察隊は新城からタロコ渓谷を西進、所謂東西挟撃の態勢で
臨んだ。5月17日、軍事行動開始、同年8月19日、佐久間軍
司令官凱旋。

台湾総督側が近代装備の軍隊の大部隊で臨んだタロコ戦役
の内実は容易に想像が付く。霧社事件と同じように、タロコ戦
役に関しても従来から台湾、日本の双方で、凄惨で悲惨な戦
役を風化させないよう検証、研究、討論は継続されている。最
近になり、タロコ戦役に従軍した一日本人兵士の手記も発掘
されたりしている。他方、一方の当事者であるタロコ族の間で
は、戦役の記録は口承という形で後代に伝えられてきた。そ
の集大成の一つが、2001年、台湾で開催された「太魯閣抗日
戦役105週年紀念回顧史研討会」。

(註3)「合歓山越嶺古道-霧社〜畢緑間:()内は現在のランド
マーク」:霧社(同)→見晴(清境農場)→立鷹(台湾大学山地
実験農場入口南方)→追分(翠峰サービスエリア)→合歓山
(昆陽冬期派出所)→石門(合歓山荘)→合歓(大禹嶺)→関ヶ
原(雲海山荘)→畢緑(畢緑神木サービスエリア西方)

中横本線の最高点、大禹嶺は休日は多くの車で混む。合歓
山、梨山、タロコの三方面を目指す観光客が往き交うからだ。
売店・食堂がある側の中横を隔てて向かい側の建物横に階
段がついており、ここを上がると涼亭があり、誠に不格好にプ
ラスチックの板で保護された中横開路記念碑がある。この記
念碑の前後、延長の合計が約5キロの古道が残存しており、
中横と古道との関係がよく判る一段。一般には知られていな
いが、台湾二葉松の中の静かな回廊の間の散策が楽しめる。

(註4)「掘鑿曲流古道」:主線は(畢緑)→カラバオ→セラオカ
(フニ)→見晴→クバヤン→シキリヤン→タビト(天祥)。以下は
幾つかの旧地に関するコメント。

カラバオ跡地は現在は農場、キャベツを代表とする高山野菜
が広く栽培されており、日本時代は豪華な宿泊所も合わせ
持っていたが、今はその残骸はすっかり消失してしまった。農
場と言っても、車で行き来出来るような場所にはなく、農場に
必要な物資は畢緑神木下方から深い谷に渡したケーブルカー
で運搬、人はケーブルカー起点横の登山口から山の稜線に入
り大きく迂回しながら二時間程度掛けてその農場に至る。この
カラバオ農場までは一般のハイカーが入るのは可能。

セカオカフニ、略してセラオカ付近にもタロコ戦役の際に、軍司
令部が設置された。筆者は現地に「佐久間台湾総督露営之地」
碑が倒壊はしているが完全な姿で残っていることを最近になり
知った。佐久間は戦況視察中に崖から転落、負傷するが、タロ
コ族の間では佐久間はこの時落命したと信じられてきた。尚、
現代台湾で佐久間の名が冠され残っているのは、佐久間山(
標高2,809メートル)と研海林道(「研海」は佐久間の号)がある。

日軍墓葬群は見晴付近にあり、カラバオから入ると相当な時
間が掛かっていたが、最近の山行記録を閲覧すると、中横脇
から見晴へのショートカット・コースが開かれ、山中一泊で墳
墓を往復出来るようである。

クバヤンは、当時合歓山越嶺古道中で最大の部落。今は古
白楊の字が当てられ、これに対し、現在の居住地は新白楊
と呼ばれ、中横上にサービスエリアがある。佐久間山の絶好
の展望所。当時はカラバオとタビト間が一日コース、その為
にこの二か所に宿泊施設が存在したが、今この区間を踏査
しようと思えば一週間近く掛かる様だ。

(註5)「採金・発電用自動車道路」:自動車用道路はまず峡
谷入口から現在の長春祠辺りまでが開鑿された。その後、
ダム建設(現在の渓畔ダム)の為の自動車道が渓畔まで開
通、その後を採金道路としてタビト(現在の天祥)まで開通さ
せる計画であったが、大東亜戦争の影響でその手前の合流
までしか開鑿出来なかった。これらの道路は中横建設の下
敷きになってしまったが、当時のダム施設工事用道路がサカ
タン歩道として整備、観光客に開放されている。タロコ峡谷の
入口にあるビジターセンターからそのまま長春祠へ至るバイパ
スを進むと、タツキリ渓とサカタン渓の合流地点にサカタン橋
が掛かっており、その橋の袂が入口、全長4キロで全線が平
坦なので、往復三時間程度、誰でも気軽に歩け、豪快は渓谷
美を堪能出来る。この歩道はそのままサカダン社(現在は大
同部落)とホーホス社(現在は大礼部落)へ繋がる。両集落と
も標高が1,000メートル前後の地にあり、父祖伝来の地にその
まま居住し続ける。

(註6)「国軍退役軍人」:台湾では「栄民」と呼ばれる。中横建
設の意図は、1)国防、2)経済建設、3)栄民の就業対策の三
点にあったと言われる。アメリカからの経済支援を受け膨大な
予算を使い中央山脈越えの道路を建設することが本当に国
防上意味のあることだったのか?中横から外部、つまり東西
を海岸部へ抜ける道路は実質一本しかないので、途中を一
箇所遮断されれば全体の交通も同時にストップしてしまうとい
う現実の中、本当に国防上、且つ経済上意義があったのか
?中横建設を主導したのは、国防部。一般人に広く就業機会
を与える公共事業だったはずなのに、退役軍人主力で工事を
敢行したところに中横建設の実際の意図が伺える。尚、タロコ
渓谷内の観光スポットの一つ長春祠は中横建設時の殉職者
を祀っている。

(註7)「国立公園」:昭和2年、台湾八景の応募でタロコはその
一つに選定、昭和10年には国立公園の候補地になり、昭和
12年末、次高タロコ国立公園に指定された。次高(つぎたか)
山とは現在の雪山(標高3,886メートル)で、今は太魯閣と雪
覇(雪山と大覇尖山の頭文字)の二つの国家公園に二分され
ている。台湾八景選定以降、タロコ峡谷への観光客が急増す
るのみならず、合歓越道路を利用した能高山(同3,262メート
ル)、合歓山、奇来主山(同3,607メートル)、畢緑山(同3,371
メートル)等中央山脈への登山が隆盛を極める。これら観光客、
登山客の便宜を図る為に、宿泊施設も整備され、西側から霧
社、追分、合歓山、関ヶ原、カラパオ、タビト、バタカンの七か
所に設けられた。各々の宿泊所の間隔が当時一日で歩き通
せる距離を意味する。

(註8)「タロコ族」:タロコ族最古の集落とされるのは、南投県
仁愛郷合作村平生部落、トルワン社。霧社から省道14号線
を能高山越嶺道西側起点を目指す途中で、蘆山村から分岐
する合作産業道路沿線にもセデック族の集落が点在するが、
最奥の静観部落、サード社の一つ手前の部落。

(註9)「氷河遺跡」:合歓山荘付近では二箇所のカール(圏谷
)を始め幾つかの氷食地形が確認されている。最もはっきりし
たものは、同山荘後方に聳える合歓尖山(3,217メートル)で、
台湾で唯一のホルン(氷食尖峰)だそうだ。この山も立派な三
千メートル峰だが半時間も掛けずに登れてしまう。尚、台湾に
於ける氷食地形研究のパイオニアは鹿野忠雄。

(註10)「山月橋」:ブロワン社跡地は現在は布洛湾遊楽区と
呼ばれ、宿泊施設を併せ持つ瀟洒なレクリエーションセンター
になっている。その宿泊施設の経営母体は台北のリーダー(
立徳)ホテルで同遊楽区内の施設は「布洛湾山月邨」と名付
けられているが、山月は日本時代の橋の名前から取ったもの。

(註11)「文山」:天祥から中横が高度を上げ始めるとすぐの場
所にある、渓谷沿いの文山温泉のこと。日本時代の深水(ふ
かみ)温泉。タロコ戦役中、深水少佐が発見したことからそう
呼ばれた。数年前、温泉上部の岩盤が崩落、死者が出た為、
現在立ち入り禁止となっているが、地元の人は相変わらず利
用している。

(註12)「弔霊碑」:大正3年〜大正11年に掛けて殉職した日
本人警手二名、巡査二名の殉職慰霊碑で、もともとは合流駐
在所にあった墳墓を昭和12年になり移設したものである。緑
水側にも以前「海鼠山道路建設碑」があったはずだが、筆者
は探し出せていない。大正3年、タロコ戦役中にバタカンー海
鼠山(緑水北方)間に軍用道が開鑿されたのを記念したもの。
この道路は今でも残存しているが、一般のハイカーには無理
である。

(2011/04/24)

西豊穣 ブログ「台湾古道~台湾の原風景を求めて」
http://taiwan-kodou.seesaa.net

西豊穣 台湾紀行古道シリーズ バックナンバー
(リンクは、平成23年(2011年)6月以降は利用不可能になる見込み)

2010/10/21 関門古道と「水の古道」
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2009/10/07 福巴越嶺古道
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2009/05/09 関山越嶺古道
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2009/01/12 苗栗県の古道
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2008/10/19 パイワン族秘道、森丑之助「生蕃行脚」の世界-2
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2008/10/17 パイワン族秘道、森丑之助「生蕃行脚」の世界-1
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2008/06/21 新店獅仔頭山歩道−隘勇線
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2008/01/05 玉山古道−余話
http://www.emaga.com/bn/?2008010008393972008356.3407

2008/01/02 玉山古道(新高山歩道)
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2007/06/16 蘇花古道−3
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2007/06/15 蘇花古道−2
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2007/06/14 蘇花古道−1
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2006/11/26 恒春卑南古道(阿朗伊古道)−3
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2006/11/19 恒春卑南古道(阿朗伊古道)−2
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2006/09/30 恒春卑南古道(阿朗伊古道)−1
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2006/07/05 六亀特別警備道付記‐竹子門発電所
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2006/07/03 六亀特別警備道(扇平古道)
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2006/03/06 浸水営古道
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2005/12/23 崑崙拗古道
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2005/04/26 八通関古道
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2005/02/25 霞喀羅古道(石鹿古道)
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2005/01/06 能高越嶺古道
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