西豊穣
台湾の脊梁、中央山脈と雪山山脈を東西に横断する山岳自動車
道路は「横貫公路」と呼ばれ、以下の三本があります(註):
「北部横貫公路(通称「北横」)」=省道7号線
(区間:桃園県大渓−宜蘭市)
「中部横貫公路(通称「中横」)」=省道8号線
(区間:台中県東勢−花蓮県新城)
「南部横貫公路(通称「南横」)」=省道20号線
(区間:台南市−台東県海端)
これら三本の自動車道路建設の際ベースになったのは、日本時
代の原住民族に対する警備道(「理蕃道」)で、これら元警備
道は今は北から順に、角板山古道、合歓山越嶺古道、関山越嶺
古道と通称されています。今回は南横のベースになった、日本
時代の関山越警備道路、現在の関山越嶺古道を紹介します。
これまでの本メルマガに投稿した台湾古道の記事は、その沿線
に渡って点景を選びならが紹介する形をとっていましたが、今
回紹介する関山越嶺古道はその延長が長く当時の遺構がかなり
の規模で残っており、これまでと同じような紹介のスタイルで
すとだらだらと長くなりますので、今回は古道核心部と、実際
歩かずとも車をちょこっと停めて嘗ての警備道の風貌を勘弁に
観察出来る場所を二箇所だけ選んで紹介します。
<関山越警備道路と南横>
関山越警備道路の西側起点は高雄県六亀郷六亀(日本時代も同
じ)、東側起点は台東県海端郷関山(日本時代の里壠)で、
その間約170キロの道路が開鑿されました。1921年(大正10年)
から東段から整備が開始され、丁度10年の歳月を掛けて西段ま
での全線が完工したのが1931年(昭和6年)、これとは別に何本
かの支線も開鑿され、以前「台湾の声」で紹介した「六亀特別
警備道」もそれら支線の一つです。そして同警備道開鑿開始か
ら丁度50年後の1971年、現代の南横が開通します。
南横の最高点は標高2,722メートルの大関山トンネル、高雄県と
台東県の県境で、通称「埡口」(中国語で鞍部、稜線の最
低点の義、「唖口」という表記も見掛けるが多分間違い)と呼
ばれ、トンネルの東側、即ち台東県側は足下に広がる雲海で夙
に有名、台湾を代表する山岳自動車道の最高点ということもあ
り、何時も大勢の観光客で賑わっています。北回帰線以南に位
置しながら、寒気団が流れ込んだ時には、雪、霧氷を観賞出来
る場所でもあります。
日本時代の警備道は、当時はトンネルはありませんでしたから、
この大関山トンネルの上部を乗り越しており、当時も高雄州と
台東庁の州界、やはり警備道の最高点でした。それで今後私の
記事の中では、このトンネルを境に西側即ち高雄県側を西段、
東側即ち台東側を東段と便宜上呼ぶことにします。
現在の南横とオリジナルの警備道との関係は、西段、東段とも
おのおの大きく乖離した部分もありますが、交差している部分
も多く、概ねお互いが上になり下になりながら東西を結んでい
ます。
<「関山」の由来>
古道名の関山は、中央山脈南段の雄峰、関山(標高3,668メー
トル、台湾百岳12号)がもともとの由来だと思われますが、関
山という特定の山岳を意味するというより、当時はこの関山か
ら北側の向陽山(標高3,603メートル、百岳17号)まで伸びる、
崩壊が激しく著しい起伏を繰り返す稜線は正に天嶮と呼ぶに相
応しく、他に二つの台湾百岳である塔関山(標高3,222メート
ル、72号)と関山嶺山(標高3,176メートル、76号)を含み、
これらを総称して大きな自然の関、関山と称していたのではな
いかと想像しています。尚、大関山という名の山は現在の地形
図上には存在しませんが、塔関山のことであり、今はトンネル
の名前として残っています。叉、警備道上に設営された駐在所
の中で、最も標高の高い場所に築かれた駐在所は警備道の最高
点の東側で、関山駐在所と称され、その西側隣の駐在所には大
関山という名が当ててありました。
<警備道開鑿の背景-「サクサク道路」>
さて、何故当時の台湾総督府は中央山脈南部を跨ぐこのような
大警備道を開鑿したのかについては、以前「台湾の声」へ寄稿
した「八通関古道」と「六亀特別警備道(扇平古道)」で触れ
たことがあります。本警備道開鑿の経緯を概観するとなると、
1914年(大正3年)に開始されるブヌン族に対する武器・弾薬没
収を契機に激化する、ブヌン族対総督府の広範囲且つ長期間に
渡った抗争を概観する必要がありますが、それは今回の投稿の
主旨ではありません。西段は[艸/老]濃渓、東段は新武路渓流域
に点在していたブヌン族に対する警備道だったという説明に留
めておきますが、以下の当時の「台湾日日新報」の連載記事か
らの抜粋は、本警備道の性格と当時の状況をよく伝えていると
思いますので、そのまま掲載します。
記事名は「総督の東台湾視察 随伴後記」(中曽根特派記者)
で1928年(昭和3年)に発表、総督とは第十二代川村竹治です。
記事は総督に同行し警備道東段、台東側に足を運んだ際書かれ
たもので、この時点では六亀までの警備道全段はまだ開通して
いませんでした。記者の勘違いか、或いは当時は実際そう計画
されていたのかは判りませんが、実際の警備道は記事に書かれ
ているように関山の南に位置するハイノート山(現在台湾表記
は「海諾南山」。標高3,175メートル、台湾百岳77号)と関山の
鞍部ではなく、関山よりかなり北側の鞍部を越えるように開鑿
されましたし、叉、八通関越と関山越の二つの警備道は結局繋
がりませんでした。この二つの警備道の間を神出鬼没していた
のはブヌン族だけで、今でもこの二つの古道を繋いでいるもの
は登山道だけです。同連載記事の別な箇所に当時「全島一物騒
千万な管内」との表現が出て来ます。
尚、本記事は神戸大学付属図書館デジタルアーカイブから抽出
してきたもので、電子化されたテキストには句読点がありませ
んので、私の方で適宜加えました:
「…次いで新武呂駅(註1)に達するが、これがサクサク道路
(註2)の基点であって、有名な兇蕃アリマンシケンやらラホ
アレの蟠居している奥地に通じている。全島唯一の厄介な彼等
未帰順蕃を袋の鼠にするためにサクサク道路が開鑿され、今こ
の駅から七里三十丁を逆ったプルプル(註3)まで出来上った
途中にある、サクサクの高台とプルプルとは要害の地なので、
共に砲台を築き附近の高山蕃を瞰下し、万一に備える等正に戦
時気分が漲っている。毒毒しい蕃山の茂りの中に羊腸とした九
十九折の山路(註4)が見え、奥へ奥へと際限なく続いている。
理蕃政策の幹線ともなるこの道路は、本年度に於て一万二千余
尺の関山の麓に出て次いで一万四百尺のハイノート山との鞍部
を越え、屏東郡下から北進するラックス道路(註5)と合し、
新高山の頭部老濃渓を辿って八通関道路に至るもので、行程十
数里、昭和四年度に完成する予定であるが、名が負う兇蕃の本
拠地、而も今夏郡大蕃(註6)の誘引に成功して頓に勢力を増
大した彼等の事とて、どこまで頑強に抵抗するかが問題である。
一月以来送電を中止しているものの、いつでも送電し得らるる
警戒線が沿道帰順蕃の万一に備えられている程、この地方は物
騒千万な処である。」
(註1)現在の台湾鉄路海端駅。台東県海端郷海端は日本時代
はハイヌワンと称されていた場所。
(註2)現在の台東県海端郷新武東方の標高1,300メートル強の
山中にあったブヌン族の部落サクサク社に因む。
(註3)現在の台東県海端郷霧鹿。
(註4)プルプル社−リト社(現在の利稲)−マテングル社
(同摩天)−カイモス社(同吉木)に掛けての警備道の様子を
表現したものだと思う。現在の南横も同じように蛇行しながら
高度を稼いでいる。
(註5)関山越警備道西段、[艸/老]濃渓沿いにあるラックス社
(現在は高雄県桃源郷樟山に移遷)に因む。当時は同警備道東
段をサクサク道路、西段をラックス道路と通称していたのかも
しれない。
(註6)現在の南投県信義郷の大郡渓沿いに居住していたブヌ
ン族。八通関越警備道側。
<古道踏査研究と現在の古道の現況>
玉山国家公園管理処の研究委託事業として林古松氏に依り踏査
研究された結果は、丁度20年前の1989年に「玉山国家公園関山
越嶺古道調査研究報告」として上梓されました。これが私の知
る限りは、全ルートを詳細を極めて踏査・研究した唯一のもの
であり、古道の荒廃が年々進むことを考えると、今後この林氏
の研究を凌ぐものは出て来ないと思われます。本調査研究の大
きな目的は、現在約100キロが完全歩道(登山道)化されている
八通関古道と同じような形で、関山越嶺古道を歩道化する為の
予備調査でした。尚、260ページに及ぶ同報告書は玉山国家公園
管理処に連絡すればコピーを分けて貰えます。
林氏は同報告書の中で、道路、住居、街の構築、田畑の開墾、
そして南横の建設から免れた嘗ての警備道が、約80キロ程度残
存していると報告していますが、その中で古道西段側の玉山国
家公園遊客中心(ビジター・センター)のある梅山から大関山
トンネルまでの約30キロの部分が、ほぼ完全な形で残っており、
本古道の白眉だと述べています。この部分はそのまま玉山国家
公園の領域内になります。しかしながら現在までの所、誰でも
が歩けるように整備されている部分は、中之関駐在所跡から天
池までの僅か4キロ弱に過ぎません。嘗ては全長170キロに及ん
だ警備道のこのほんの一握りの段だけが現在「中之関古道」と
して人口に膾炙しています。
従って、現在の台湾観光案内では、関山越嶺古道イコール中之
関古道という取り扱いになっています。平坦な段ですので、ゆ
っくり歩いて往復しても三時間程度ですので、読者の中にも既
に実際歩かれた方もいらっしゃるのではないかと思います。中
之関古道については玉山国家公園の各ビジター・センターでパ
ンフレットが準備されていますし、以下の「高雄県校園主題館」
がこの古道紹介の台湾に於ける最も秀逸なサイトですので参考
にして下さい。
http://content.ks.edu.tw/33k/006_historictrail/004_kno.html(中之関郷土教材)
警備道開鑿から凡そ80年、林氏の踏査時からすら更に20年を経
過しましたから、その当時ですら踏査が難しかった部分は今な
ら容易には入り込めない状態になっているのは想像が付きます。
私は林氏が白眉だと称した古道西段30キロの部分全部を今でも
本当に歩けるのかどうか、前出の梅山ビジター・センターのこ
の研究報告書の存在をご存知のブヌン族の館員に質問したこと
があるのですが、その方の答えは、林氏ですらその全部を歩い
たわけではなく、部分的な踏査だったはずだという答えでした。
<古道核心部-旧警備道最高点>
大関山トンネルは、この稜線の最低部、具体的には塔関山と関
山嶺山との間の最低鞍部下約二百メートル地点を貫いて南横の
東西段を繋いでいるのですが、日本時代の警備道は、この最低
鞍部地点(標高2,930メートル)を越えており、そこが同時に警
備道の最高地点でした。当時はこの最高点に高雄州・台東庁の
州界碑、休息所、及び見張り所が置かれていました。
因みに、台湾の山岳愛好家の間では中央山脈を幾つかの段に分
けて話をする機会が多いです。例えば、南一段全縦走とかいう
具合にです。「南一段」と「南二段」の境を何処に置くかは色
々意見があるようですが、大関山トンネル、つまり塔関山と関
山嶺山の最低鞍部をこれら二段の境界にする人もあります。こ
の区分けは地理学的には妥当かもしれません。
幸運なことに、今でもこの嘗ての警備道の最高点に難無く立つ
ことが出来ます。しかも少しばかり冒険心を発揮すればこの最
高点に繋がる西側古道を少なくとも数百メートル辿ることが出
来ます。
関山嶺山への登山口は大関山トンネル東側入口(出口)の道路
脇にあり、しっかりした木製の梯子が付けられていますのです
ぐ判ります。少々足に自信があれば登山口と頂上の往復で約三
時間、所謂日帰り可能な百岳ですので、休日は多くのハイカー
で賑わいます。小さな子供連れのハイカーをよく見掛けますの
で、天気さえ良ければ誰でも登山可能です。
この登山道はまず登山口から前述の塔関山と関山嶺山の最低鞍
部、つまり古道の最高地点を目指して前述したように凡そ二百
メートル直登します。半時間程度で鞍部まで辿りついた後はそ
のまま北側に伸びる稜線を頂上まで辿ります。但し、鞍部まで
の登山道は古道ではありませんし、その後稜線を頂上まで辿る
登山道も古道ではありません。つまり、嘗ての警備道、現在の
古道は、関山嶺山登山道と出会う、或いは交差しているのです
が、その交差地点から東側にもあるはずの古道は薮の中に消失
しており私自身は探せませんでしたし、更にその先にあるはず
の嘗ての警備道上の駐在所の中で最高所に築かれた、関山駐在
所跡に辿り着くすべも見付かりそうにありませんでした。
他方、古道西側は、鞍部まで辿り着いた後そのまま正面(登山
道は右手側に変わる)を見ると山裾に沿って走っている小道が
見えているのですが、これが古道で、関山嶺山頂上目指して稜
線を少しばかり辿って後ろを振り返ってみれば更にはっきりと
判ります。今は登山道と古道の分岐点の古道側は人の背丈より
少し低い笹に塞がれている為、普通の人はこの道を辿る勇気が
出ないかもしれませんが、すくなくとも最高点付近の古道の状
態はそれ程悪くありませんので、分岐点から見えている古道の
最初の曲がり角ぐらいまでの数十メートル足を延ばしてみてそ
の後に続く古道がどういう状態になっているかを観察してみる
ことをお薦めします。私の場合は数百メートル、大関山トンネ
ル西側入口(出口)の上部まで辿ってみましたが、竹薮に加え、
倒木、道の崩壊部があり一般のハイカーには薦められません。
実は古道最高点の西側部分が修復・保護されていないにも拘ら
ず、今でも歩こうと思えば何とか歩けるような状態になってい
るのはわけがあります。以前は、トンネル西側にも関山嶺山へ
の登山口があり、西側の登山道はこの古道を利用していたから
です。林古松氏が古道の踏査研究を行っていた頃は、トンネル
の東西両側からこの百岳の一座は登られていたからで、その後
専ら東側登山道だけが利用されるようになり、西側登山道は荒
廃してしまったわけです。
古道最高点から西側を望むと、中之関古道の天池側がはっきり
見て取れます。そこら辺りから南横自動車道が大関山トンネル
に至るまでの距離は約15キロあります。この区間の古道は南横
と交差することなく常に南横のかなり上部を平行して走ってい
るような形になっています。林氏が関山越嶺古道の白眉と称し
た30キロの凡そ半分が走る山並みを古道最高点から眺望出来る
わけです。
この天地から大関山トンネルに至る南横の道路脇に、関山嶺山、
塔関山、庫哈諾辛山(標高3,115メートル、百岳85号)の台湾百
岳三座への登山口があります。これら三座は南横三星と呼ばれ
ており、最近になり茶色(台湾では観光名所を表示する)の道
路標識を南横沿線で目にするようになりました。登山口と頂上
往復の時間を勘案すればすべて日帰り可能な百岳で、台湾百岳
登山の入門コースです。叉、南横東段の現在の向陽派出所・向
陽ビジター・センター(日本時代の向陽駐在所跡)には、向陽
山、及び以北の中央山脈南二段への登山口が付いており、八通
関古道まで辿ることが出来ます。
南横三星への登山口は各々異なる場所にありますが、その登山
コースは古道を横切るように付けられています。私自身塔関山
と庫哈諾辛山に登った時にはそのことを知らず、突然現れる平
坦地に不思議な気がしていたのですが、それらが古道であり駐
在所跡であることに合点がいったのは随分後のことでした。
<向陽山大崩壊と古道>
古道最高点の状態からも判るように、何等かの補修・保護の手
が加わらない限り、嘗ての警備道をそのまま歩くのは最早困難
な状況になっているのが現況です。それでも僅かな部分は自動
車道を離れず観察出来る場所があります。
西側から大関山トンネルを越え台東側に南横を下り始めるとす
ぐに正面に二条の滝を従えた大断崖がぱっくり口を開けている
様が目に飛び込んできます。向陽山大崩壊と称される特異地形
で、南横、そして当時の警備道もこの崩壊部の裾に沿って走っ
ています。南横がこの大断崖に行き当たる少し手前に埡口
山荘への入口がありますので、その山荘の駐車場に車を停めて
この大断崖とそれに連なる稜線をゆっくり観賞することをお薦
めします。
向陽山を目指して登る途中に、この崩壊部を真上から見下せる
場所があり、林務局が案内板を設営しこの崩壊部の説明を提供
しています。前述の関山から向陽山に掛けての荒々しい稜線と
大関山トンネルから真っ直ぐに延びて来て崩壊部下で大きくカ
ーブする南横、そしてそのカーブする付近にある埡口山荘、
駐車場兼へリポート、埡口派出所を含む広場が足下に望め
ます。埡口派出所は日本時代の渓頭駐在所を襲って設けら
れ、今は閉鎖されてしまったこの派出所の裏に廻ると当時の遺
構が残っています。大関山トンネルの上部から、この派出所に
向かい降りてきて南横に行き当たる線が当時の警備道で、南横
と警備道との関係を勘弁に俯瞰出来る場所です。
南横が向陽山大崩壊に突き当たり大きくカーブする部分には二
本の橋(雲海橋)が掛かっていますが、その橋の下に古道が残
っているのを確認出来ます。南横がその上を平行して走ってい
るといってもそこまで降りていって古道上に立つのは難しいの
ですが、古道最高点とは異なる、崖にへばりつくように開鑿さ
れた警備道のオリジナルな風貌がそのまま残存している部分で
す。但し、この南横がカーブする辺りは台風が襲う度に修復さ
れる場所なので、今残存している部分もそのうち消失する可能
性があります。
ただ単に古道最高点ということに留まらずに、地理的にも、歴
史的にも、加えて現在的な意味でも、嘗ての警備道が台湾中央
山脈南部の天嶮を乗り越す周辺は、本古道の核心部だと言えま
す。南横を旅する機会があれば、是非とも埡口トンネル東
口に車を停め、思い切って関山嶺山に登ってみるか、或いは、
雲海橋付近に車を停めて、嘗ての警備道が今どんな趣になって
いるのかを観察して欲しいと思います。
<天龍温泉ホテルと古道=現台東県海端郷霧鹿>
南横東段が走る地域は玉山国家公園には含まれていませんが、
台東市街を通り太平洋に流れ込む卑南渓の上流域を形成する新
武呂渓が創り出した渓谷美は全く見事で、個人的にはタロコ渓
谷に匹敵すると考えています。特に、嘗てのプルプル社、現在
の霧鹿村の足下を走る南横脇にある天龍温泉ホテルがある辺り
から先の渓谷がその白眉だと思います。
天龍温泉ホテル脇にはこの新武呂渓を対岸に渡る吊橋が掛けら
れていますが、日本時代も同じ場所に橋が掛けられており「天
龍橋」と呼ばれていましたので、このホテル名はその橋の名か
ら取られたものだということが判ります。渓底から相当な高度
差がありますから勇を鼓してこの橋を渡リ切ると、対岸の岩壁
に当時の橋の銘板と日本人11名の工事人員の名簿板が嵌め込ま
れています。ホテルの駐車場は当時見張り所を置き、原住民を
監視していた場所です。
橋の対岸にはそのまま直登する遊歩道が付けられており、天龍
古道と呼ぶ人もあります。南横は新武呂渓の右岸に建設されて
おり、天龍温泉ホテルを過ぎた後もそのまま右岸沿いに大きく
迂回して初めて左岸に移りそこから高度を稼ぎながらホテル対
岸上部に出て更に利稲(リト社)、摩天(マテングル社)、大
関山トンネルへと登り詰めていくのですが、この遊歩道は自動
車道が迂回するのをショートカットし、いきなりホテル対岸上
部に出ます。その標高差は約300メートルありますので、この遊
歩道を全部辿るのはかなり難儀です。観光案内の中には、この
遊歩道を関山越嶺古道と説明しているものもありますが、実際
は嘗てのブヌン族の連絡道という方が正しいでしょう。その証
拠に、吊橋を渡る途中で左岸左手を見ると渓谷に沿って平行に
走る嘗ての警備道が残っているのがはっきり見て取れます。但
し、古道は橋の袂で大きく崩壊していますのでこの段も残念な
がら歩けません。
<プルプル砲台>
天龍温泉ホテルから少しばかり台東側よりの南横脇に霧鹿村へ
の入口が付いています。「古砲台公園」の茶色の道路標示板が
ありますのですぐに判ります。村への入口からだと一番奥に霧
鹿国民小学校(日本時代のプルプル蕃童教育所がその前身)が
位置しており、その後方に同公園が設えられており、二門の大
砲が展示されています。この公園のあった場所が日本時代に実
際砲台が置かれた場所ではなく、その公園の後方に上水道施設
があり、これがプルプル駐在所跡、更にその後方にちょっとし
た高台がありそこに涼亭(展望台)が設けられていますが、そ
こが嘗て砲台の置かれていた場所です。天龍橋の真上に位置し、
約200メートルの落差があります。公園内の二門の大砲は日露戦
争当時ロシア軍から押収したものをこの地に運んだとの説明が
ありますが、真偽の程は判りません。
台湾総督府が原住民管制の為に建設した砲台跡に、このように
実門を置いて歴史遺産としているのは、私の知る限りこのプル
プル砲台跡だけだと思います。
梅山から大関山までの南横西段が国家公園に含まれていますの
で、どうしても観光客は西段側に集中しがちですが、太古の自
然を目の当たりにするような趣と、日本時代との関わり合いと
いう点では、東西段、差はありません。私自身初めて南横西段
を車で天池まで辿った時、眼前に立ち現れた塔関山とその南側
へ辿る稜線の怪奇さは本当に忘れ難いものがあります。関山嶺
山に登る気にならなくとも、中之関古道は、歩き易さ(距離と
平坦度)、古道・駐在所跡の整備の良さ、手付かずの自然とい
う三点から、台湾古道の入門コースとしてお薦めします。
前出の台湾日日新報の同連載記事の中に次の下りがあります。
それから八十年経ちましたが、今でも同じ感覚に陥ることは、
中之関古道を歩く、或いは南横を車で辿るだけでも可能だと思
います。
「人跡未踏というがここだけは全くその通りで、文化人禁断の
聖殿といってよい。…千古斧鉞を入れぬ奥地の怪は、想起した
だけでも血湧き肉躍るものがある。」(終わり)
(註)「省道」は本来は「国道」と称すべきものだが、行政院
交通部は未だに変更していないので現在の呼称に従った。現在
の台湾で「国道」とは高速公路(道路)に対する呼称である。
西豊穣 ブログ「台湾古道〜台湾の原風景を求めて」
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2009/01/12 苗栗県の古道
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2007/06/14 蘇花古道−1
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2006/11/26 恒春卑南古道(阿朗伊古道)−3
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2006/11/19 恒春卑南古道(阿朗伊古道)−2
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2006/09/30 恒春卑南古道(阿朗伊古道)−1
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2006/07/05 六亀特別警備道付記‐竹子門発電所
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2006/07/03 六亀特別警備道(扇平古道)
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2006/03/06 浸水営古道
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2005/12/23 崑崙拗古道
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2005/04/26 八通関古道
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2005/02/25 霞喀羅古道(石鹿古道)
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2005/01/06 能高越嶺古道
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