親愛なる李登輝先生  河崎 眞澄(東京国際大学教授)

拝啓 お好きだった向日葵の大輪の花が咲き誇る季節が近づいて参りました。李登輝先生が2020年7月30日に身罷られてから、2年もの時が流れようとしています。日本統治時代の台湾で、大正12年にお生まれになった李登輝先生ですから、お元気でしたら来年1月15日に満百歳になられますね。ご命日にお姿を思い出して涙するよりも、台湾の習慣でいう「冥誕」のその日こそ、私たちの心の中にいらっしゃる李登輝先生に、感謝とともに紀寿のお祝いを申し述べたく存じます。

 台北のご自宅で李登輝先生はよく、秋川雅史さんの「千の風にのって」という曲を、おくさまの曾文恵さんと歌っておられました。「私のお墓の前で泣かないで下さい」と。1982年3月に癌のため弱冠31歳で亡くなったご長男、李憲文さんの聡明な姿を、ご夫妻ともに瞼の奥に浮かべておられたのでしょう。日本語世代である父母の考え方の根源を知ろうと、日本語や歴史を学ばれ、社会学の研究者としても、ジャーナリストとしても活躍されていた両親思いの李憲文さんを、発病から数カ月であっという間に失ったお気持ちは、子供をもつ親となった私にとって痛いほど分かります。

 李憲文さんが亡くなられたとき、李登輝ご夫妻にとっては初孫で、生後7カ月の女の子、坤儀さんを残されました。ご夫妻でまるで実の娘のように大切にされましたね。そして愛らしいお嬢さまお二人も。李登輝先生がご自宅でいつも、「おーい、フミ!」と日本語で呼びかけられた曾文恵おくさまはこのところ、少し足を弱められているそうでが、安[女尼]さんらお嬢さま姉妹、初孫の坤儀さんらご家族がしっかり、大切にお世話されていますから、どうかご安心ください。

 李登輝先生もこの2年、李憲文さんや数多くのご友人、先人とともに、千の風に乗って、空から世界の激動をつぶさに見てこられたことと思います。ことし2月24日に侵略が始まったロシアによるウクライナへの軍事行為と市民への残酷な攻撃、時を前後してエスカレートしてきた中国による台湾と周辺地域での不穏な武力威圧には、さぞかし心を痛めておられることでしょう。

 とりわけ、日本の元総理、安倍晋三先生がこの7月8日の白昼、参院選候補への応援演説中に理不尽な凶弾に倒れ、67歳で亡くなったことは、痛恨の極みであったかと存じます。

 あるいはもう、安倍先生とお空の上で再会され、地上での厳しい事態をお2人で議論されているかもしれませんね。ご長男の李憲文さんより4つ年下の安倍先生を、李登輝先生は愛弟子のように大切にしておられました。20年近く新聞記者の立場で李登輝先生を身近に取材させていただいた経験からみて、安倍先生とは「深い信頼で結ばれた師弟関係」でした。失礼を承知で申し上げれば、李憲文さんの姿を安倍先生に投影された「父と息子の関係」であったかもしれません。

 体調悪化で2007年9月に総理の座を降りざるを得なかった安倍先生でしたが、3年後の2010年10月、台湾訪問団の一員として台北に到着し、故宮博物院に近いご自宅を訪ねて来られたとき李登輝先生は笑顔で、「もう一度、総理になりなさい。いま、あなたのほかに(日本の)リーダーはいない」と畳みかけられたそうですね。衆議院議員会館で昨年7月21日にお会いした際、安倍先生は、「あの時の李登輝総統のお言葉に、とても勇気づけられた」と話していましたよ。

 安倍事務所には、李登輝先生から贈られた色紙が、来客の目にすぐ留まる位置に飾られています。「日本国総理大臣、安倍晋三様」に続き、「冷静、謙虚」との端正な文字が印象に残ります。総理として議員として、「冷静、謙虚」の教えを安倍先生はずっと守ってこられたと思います。  衆議院議員に初当選した翌年の1994年9月、自民党青年局の一員として台湾を訪れた安倍先生から、総統だった李登輝先生に初めてお会いし、古式ゆかしい日本語で朗々と、国家のリーダーたるノブレス・オブリージュを説かれたことに深く感銘を受けた、とうかがいました。

 教養教育を徹底した旧制のエリート校、台北高等学校や京都帝国大学で、とくに京都学派、西田幾多郎の「善の哲学」に心酔されていた李登輝先生が戦後、米国のコーネル大学で農業経済学の博士号を取得され、クリスチャンとして洗礼も受けながら、帰国後はなぜか中国国民党の?経国主席の下で中華皇帝式ともいえる権謀術数の帝王学を授けられて、多面性を備えた人物に変貌されたプラグマティックな哲人政治家ぶりに、当時の安倍先生は圧倒されたのでしょう。

 それから30年近く、さまざまな場面でおふたりは親交を深められてきました。自民党青年局の時代に何度か台北を訪ねた安倍先生ですが、李登輝先生が2000年5月の総統退任後、ようやく訪日が認められるようになってからは、総理在任中も極秘ルートで李登輝ご夫妻のご宿泊先のホテルを訪ねるなどして、外交の要諦や人心掌握術、国家のリーダー論などを聞かれていました。

 そうして2度にわたる安倍政権の、実にプラグマティックな政策、とりわけ対米、対露、対中など世界を俯瞰したトップ外交の手法と実行力、そこから生まれた「インド太平洋構想」、各国首脳との信頼関係は、どこか李登輝先生の哲学を思わせるものがありました。

 2012年12月に第2次安倍内閣が誕生した背景に、李登輝先生のあの時の後押しがあったことは忘れてはなりませんね。「もう一度…」のみならず、安倍先生に対し再登板後の助言をさらに3つ加えた、と李登輝先生の当時の日本人秘書で、2010年10月のおふたりの会談に同席していた台北在住の小栗山雪枝さんから、詳細に聞きましたよ。真っ白な大理石が敷かれたご自宅の玄関を入って右手の応接間で、まさに恩師か、父親のような口ぶりで語りかけたそうですね。この日、安倍先生に「日本の憲法を改正しなさい」とも説いたとのこと。

 李登輝先生は2018年10月の私とのインタビューで、「日本の安全保障は米国への依存だけではなく、独自の抑止力が必要だ」と話しておられました。自衛隊の地位や米軍との関係、防衛力の拡充など、抑止力向上のために「憲法改正」が鍵となるわけです。

 思い起こせば李登輝先生は、2000年5月まで12年間の総統在任中に、中華民国憲法を6回も改正されました。とりわけ総統と副総統の選出を、台湾に暮らす千数百万人の有権者による直接投票で決める憲法改正によって、台湾政治のパラダイムを根本的に転換されました。シンガポール留学中だった私も台北に飛び、この目で見た1996年3月の初の直接選を境に、?介石、?経国の父子に代表された「中華民国体制の総統」から、「台湾の総統」に変貌したのです。

 ご自宅を訪ねてきた安倍先生にはさらに、「女性の閣僚登用」と「国家安全保障会議(NSC)の設置」も助言されたとのこと。実際に2010年12月、総理に再登板した安倍先生は、女性の登用を重視し、自らが議長になって官邸主導型の国家安全保障体制も整えていきました。

 あるいは2020年春まで、習近平国家主席を国賓として日本に招こうとした安倍先生のお考えや行動は、自民党内の対中姿勢をめぐる方向性の相違を整理するための、清濁あわせのんだ政治手段ではなかったか、とも愚考していました。党内外の保守派から激しい反発を招いても、です。

 なぜなら、かつて李登輝先生が1990年代、国民党政権の中で、軍に実権と利権を持っていた中国大陸出身の政敵を、総統の立場で、むしろ持ち上げて高い地位に就け、問題を起こすのを待って最終的に政治生命を奪っていった権謀術数の史実があるからです。安倍先生はその卓越した政治の藝術から学び、自らの政策に反映させようと試みたのではないか、と私は受け止めていました。

 国益のためなら、あらゆる手段を使ってでも、反発や誤解すら恐れずに、結果として正しい道を選ぶのが、李登輝流であり安倍流でもあったと思います。李登輝先生はかつて、機密費もかなりお使いになりましたが、インタビューで「いいじゃないか、台湾の存在と住民を守り、民主主義を守るために、カネで解決できることがあるなら、どんどん使えばいい」と喝破された姿が、いまも忘れられません。しかも機密費は国庫からの捻出だけではなく、自らの手腕で新たに生み出された資金も、そのほとんどを公に費やされたことを、存じています。

 あくまで仮説、と断ったうえで、安倍先生には具体的な自民党の有力者の名も挙げて質問しました。しかし、いつもの笑顔で、「さあ、どうですかねえ」というだけでした。もはや確認のしようはありませんが、安倍先生の言動には、李登輝先生のにおいを感じることがあるのです。

 2010年10月の李登輝先生からの4つの助言のうち、安倍先生は残念ながら2度の総理在任中に、憲法改正のみは実現できませんでしたね。おそらく今回の参院選を経て、自民党内最大派閥のリーダーとして、大局的に改憲論議を進めるお考えだったに違いありません。

 昨年7月に衆院会館でお会いしたとき、安倍先生は「(もしも台湾に李登輝先生がいなかったとすれば)自由と民主主義、人権といった普遍的な価値を多くの国と共有する今の台湾はなかったでしょう」とまで、踏み込んで語ってくださいました。まさにその見方に同感です。

 ?介石、?経国の時代の国民党政権は、いまの中国と似たり寄ったりで強権主義で市民を弾圧していました。かつての日中戦争の歴史から台湾でも反日教育も激しかったことから、仮に李登輝先生のような高い意識をお持ちの人物が1990年代に台湾を民主化し、公平な歴史教育に転換せねば、あるいは台湾はいまも、中韓と大差ない姿勢だったかもしれません。そうなれば日本は北にロシア、北朝鮮と韓国、西に中国、南に台湾と、全方向が反日国家に囲まれるところでした。そのことに感謝をささげる日本人があまり多くないのは残念です。

 この7月11日、台湾の現職副総統、頼清徳先生が安倍先生弔問のため、私人の立場で訪日されました。1972年9月の日中国交樹立に伴う日華断交の後で、台湾首脳に訪日査証が発給されたのは極めて異例でした。頼清徳先生は2024年の次期総統選で、民主進歩党から総統候補者として出馬する可能性があります。民進党の内部も権力闘争がうごめき、少々心配ですが。

 かつて李登輝先生ご自身も副総統の時、1985年2月に南米歴訪の帰路、東京にトランジットとして数日、立ち寄られましたね。しかも1995年6月には、現役総統だったにもかかわらず、私人の立場で訪米し、母校のコーネル大学で講演されました。外交関係なき日米とも水面下で人脈と信頼を築かれた政治手腕で、台湾の実務外交パワーはこの時代から始まりました。

 李登輝先生は1993年から、ブッシュ(父)元米大統領を何度も台湾に招いてゴルフを楽しみ、非公式会談も行ったと明かされています。この前後から、日米の政府や議会の要人と台湾を水面下でつなぐルート、「明徳専案」と呼ばれた極秘会議が構築されました。その詳細について何度か質問しましたが、国家機密ゆえか、李登輝先生はあまり話したくなさそうでしたね。

 ただ、この政治的な遺産が、李登輝先生にとってもう1人の愛弟子で、2016年5月から総統を務める女性、蔡英文先生の政権に受け継がれ、静かに再始動しているように見えます。蔡英文先生の任命で、行政院長経験者の謝長廷先生が事実上の日本大使として活躍しておられますし。

 あるいは謝長廷先生の努力の結果、台湾要人の訪日では1985年以来、37年ぶりの副総統による非公式訪問が、安倍先生への弔問で実現したのではないでしょうか。昨年6月4日、準備期間わずか10日間ほどで、日本から台湾に新型コロナのワクチンが緊急供与されましたが、これも謝長廷先生らが東京を舞台に、日米と水面下の交渉を行ったがゆえの成果でしたから。

 特筆すべきは李登輝先生ご逝去を受けて、図らずも2年前から「弔問外交」をめぐる国際社会の動きが、台湾の存在感を世界に押し上げる効果を生んだことです。

 一昨年7月30日に亡くなられた李登輝先生の弔問に、新型コロナ禍でありながら真っ先に8月9日に駆け付けたのが元総理、森喜朗先生の一行でした。その翌日、当時トランプ米政権で現役閣僚だったアザー厚生長官が台北を訪れ、9月19日、李登輝先生の告別式には国務省ナンバー3のクラック次官が参列しました。日米とも実に手厚い対応でしょう。

 米国が外交関係なき台湾に、かくも政府高官を送り続けたのは、1979年の米台断交以来のことでした。李登輝先生は自らの命に代えて、弔問外交の場によって日米台の再接近という解を導き出したのかもしれません。バイデン政権下でも、2012年6月に超党派の米議員団が訪台し、今年3月にはポンペオ前国務長官までが台北入りするなどしました。遠からず民主党のペロシ下院議長までも台湾を訪れる意向です。さらには欧州のチェコやリトアニアなども、中国の強権主義に反発し、台湾の民主社会擁護に動き始めています。

 こうした民主社会の政治接近で、さまざまな変化が起きました。昨年4月、現役総理だった菅義偉先生が訪米してバイデン大統領と会談し、首脳会談後の共同声明で「台湾海峡の平和と安定」を盛り込みました。日米の共同声明で台湾に触れるのは実に52年ぶりとのことです。

 昨年6月には英国でのG7サミットで先進7カ国の首脳声明に初めて、「台湾海峡」に関する文言が加えられましたね。新疆ウイグル自治区や香港での人権弾圧も指摘され、軍事威圧や経済圧力で国際秩序に挑む習近平政権への強い警戒感が、民主主義国家に一気に広がっていったのです。同時に、台湾海峡を隔てて中国と対峙する台湾の地政学的な重要性が再認識され、その存在感がこの2年で急速に高まったことは疑う余地がありません。

 ロシア軍によるウクライナへの侵攻で、5カ月も続く悲惨な事態に、国際社会では「ウクライナの次は台湾」と危惧する声がしだいに大きくなってきました。「台湾有事は日本有事」と語られた安倍先生のご心配も、現実味を増しています。この8月、来年度予算の概算要求で、日本の防衛費がどの程度、上積みされるか、注目しています。この2年、まさに世界は激動の連続です。

 今年10月にも開かれる5年に一度の中国共産党大会で、習近平総書記は異例の3期目をめざし、権力集中と、生涯にわたって実権を手放さない姿勢を見せることになりそうです。一方で日本政府は安倍先生の国葬を9月27日に執り行うことを決めました。卓越した政治家、安倍先生の国葬には遺影のもとに民主主義国家の首脳が多数、終結するシーンが予想されます。その2日後、9月29日は日中国交樹立から50年。日中友好ムードを醸したい方々も沈黙です。

 安倍先生の国葬を機に、共産党の習近平総書記と中国の暴走を抑え込む橋頭保の役割を、日本が自任し、明確にトップバッターとして行動することを強く期待しています。そのための国葬の日程設定であったと信じたいところです。

 その背景として、亡くなられて改めて真価を世界に示した不思議な師弟関係が台湾と日本の間にあったことを考えれば、李登輝先生と安倍先生の姿を現世で見ることができなくなった喪失感も、われわれは少しだけ、癒されることになるでしょう。三国志にみられる「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事を改めて、お2人から想起しています。亡くなられるタイミングまで、李登輝先生は台湾と日本と世界のために捧げられたと思わずにはいられません。

 共産党大会の後には、2024年1月の次期台湾総統選や、2024年11月の米大統領選の前哨戦と位置づけられる台湾地方統一選と米中間選挙が今年11月に控えています。

 李登輝先生、どうか千の風に乗って、安倍先生や数々の先人とともに、この世の行方を見守ってください。そしていつか私が天に召される時、真っ先にご挨拶に伺がわせてください。もしかしたら李登輝先生の第二、第三の息子になりたかった私は、身の程知らずにも安倍先生に嫉妬していたのかもしれません。

 それはともかくも、もう一度、李登輝先生の屈託のない優しい笑顔と、握手するときのあの柔らかい手のぬくもりに触れたいのです。そのとき、雲の上で、「あんた、誰だっけ?」なんて言わないでくださいね。いえいえ、それでもかまいません。台湾と日本の地上から、向日葵をたくさん持ってまいりますので。                                                 敬具

2022年7月30日河崎眞澄 於東京

*本誌にこの原稿を寄せていただいた河崎眞澄氏は、8月1日発売の月刊「正論」9月号に「李登輝先生への手紙」を 寄稿されています。こちらもぜひご一読のほどお願いします。

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