令和2年11月27日
作者: 西 豊穣
<プロローグ>
今現在、日本時代竣工の駅舎がそのまま現役の台湾鉄路(鉄道)台南駅は工事中である。丁度1年前に地下化工事に着手し、2023年完成を目指している。駅機能は地下に潜る代わりに、台湾総督府技師、宇敷赳夫が設計、昭和11年(1936年)に落成、今は国定古蹟の駅舎はそのまま保存され、嘗ての「台南鉄道旅館」が復活する。詰り、地下化工事とは、駅舎保存に加え、落成時に同時に開業、1965年と1986年に各々廃業した駅ホテルとレストランの改装工事も含まれることになる。尚、今に残る駅舎は二代目、初代は明治33年(1900年)の落成である。
<観光パンフレット「日本統治時代の台南を偲ぶ旅」>
台湾の京都と称される台南市の魅力を、今更『台湾の声』の読者に紹介するような愚挙を犯す積りはない。筆者が居住している高雄市の北隣りという地理的な近さも手伝い、逆に足を運ぼうとしないし、況してや電車に乗って出掛けるのは不便極まりないと思い込んでいる。その意に反し、最近になり漸く気張って高雄駅から電車に乗り、台南駅で下車、前站と呼ばれる西側へ出た所、上記の工事現場に出会った。
左手にビジターセンターがあり、先ず適当な観光パンフレットを物色することにした。台湾の観光パンフレットは大概、中国語版に加え日本語版、英語版、韓国語版のものが用意されているが、その中に日本語版のみのパンフレットを見付けた。それが上記サブタイトルである。A2判よりやや大きめのサイズを三つ折り、更に四つ折りにした、表裏各々12ページで構成されたこのパンフレット、表側は表紙に八田与一の座銅像を中心に据え、合計49箇所の日本時代遺構が紹介されている。このパンフレットは、台南市政府観光旅遊局にて製作・発行されたものだが、その構成と紹介件数に感心した。観光旅遊局サイト(註1)から現物がダウンロード出来るし、発行当初は中国語版もあったことが判る。
<「台湾行啓」>
次に、パンフレットの裏側を繰って思わず唸ってしまった。表紙のタイトルは「裕仁皇太子台湾周遊ルート/大正12年4月16日~4月27日(1923年)」となっている。当時、大正天皇の摂政であらせられた昭和天皇が皇太子時代に台湾に行啓され、台南では4月20日と21日の二日間ご滞在あそばされた。その所縁(ゆかり)の地が、ご到着地である台南駅(当時は初代)を筆頭に、巡啓ルートをなぞった地図も添えられ、合計13箇所も紹介されている。しかもこれら巡啓地の紹介は、他の遺構紹介が現在の写真のみ附されているのに対し、当時と現在の写真を並列させた凝りようである。
これらの巡啓地は筆者自身既に訪ねた場所もあればそうでない場所もあるのだが、筆者の興味を引いたのは12番目と13番目にリストアップされた製塩関連の古跡である。総督府機関、軍関連、神社等聖域に加え何故製塩なのか素朴な疑問を抱いたからだ。特に最期の13番目の紹介は、裕仁親王が随行員と共に塩田の中を颯爽と歩かれている写真が附されている。常々山歩きを生業(なりわい)としている筆者としては、偶には塩風に吹かれるのも良かろうと、それら二つの地を訪ねてみた。
<「臺灣第一鹽」>
台湾の製塩史は、その開闢が1665年(鄭氏明永暦19年)、終焉が2002年、その間338年と謂われる。この場合の製塩とは、天日に依り鹹水(かんすい:塩の濃度が高い海水)、又は塩の結晶を塩田を介して得る工法である。通称「天日塩田・天日製塩法」で、塩田は基本的には、海水を引込み貯める貯水池、鹹水の塩濃度を上げる蒸発池、最後に塩の結晶を得る結晶池から構成される。
鄭成功がオランダを駆逐、入台して後、鄭政権下の東寧総制(台湾統括職)陳永華将軍(中国福建潮州出身)が、オランダ人が放棄した塩田を明式の工法を持ち込み再建した。その当時の地名から「瀬口塩田」(後「瀬北」に改称)と呼ばれる。即ち、陳永華は台湾製塩の開祖ということになる。
筆者はその現場を実際訪ねてみた。現在の台南市南区塩埕里塩埕路に沿った区域近辺だそうだ。「塩埕」とは塩田のことなので、上記の行政区画名も道路名も、台湾製塩魁(さきがけ)の地を意識したものだ。最早、当時の塩田遺構等が残存していることはないが、創建が古く当時の製塩業と関わりのある二つの廟が塩埕路に沿いに鎮座している。北側の塩埕天后宮(乾隆23年、1758年創建)と南側の塩埕北極殿(康熙23年、1684年創建)で、両者の直線距離は300メートル程度だ。どちらも、当時塩の積み出し港があった場所だそうだが、今はその面影は跡形も無い。又、天后宮の境内には嘉慶六年(1801年)の銘を持つ「重脩瀨北場碑記」碑が保存されており、台湾製塩発祥の地の生き証人となっている。
台南市は、2012年、天后宮正門脇(日新国民小学校運動場隣)に「臺灣第一鹽」紀念碑を建立、改めてこの地が台湾製塩一番乗りであることを顕彰(アピール)している。2016年には、同じ目的で、天后宮附近の古い民家を利用し「鹽埕故事館」を開館させたのだが、未だ僅か四年しか経っていないのにボロボロな状態で遺棄されていたのには驚いた。
<台湾製塩開祖陳永華将軍>
陳永華は、鄭成功との関係で著名な人物である。鄭成功の世子(跡継ぎ)鄭経の教育係に抜擢され、鄭父子に対する忠義は「鄭氏諸葛」と称された。実は、陳永華が創建した廟が台南市街地にある。台湾最古の孔廟(孔子廟)の「全臺首學」門前の南門路を隔てて反対側に府中街が口を開けている。両側に工夫を凝らした小さな店舗が立ち並び、休日は多くの人出で賑わうこの狭い府中街の路地の一つに入り込むと、こぢんまりとした廟に往き当たる。開基永華宮、又は台南永華宮と通称されるのは、正式名称が、台南六合境柱仔行全台開基永華宮であるからである。序でにもう一つ付け加えると、台南孔廟も陳永華の建議で鄭経が創建した。ここも、裕仁親王の台南巡啓地の一つとしてパンフレットの紹介にある。
<台湾総督府専売局台南支局>
前出の北極殿の南側、塩埕市場に隣接する形で、同じ「臺灣鹽第一・故事館」を冠したテーマパークが出現していた。この場合のテーマの語部(かたりべ)は、「台湾総督府専売局台南支局」(終戦時は「専売局台南支局塩埕分室」)の修復された和洋折衷の木造一戸建て遺構(大正13年・1924年竣工)である。台南市指定古跡、屋内は喫茶店に模様替えされている。
台湾で塩の専売制が開始されたのは、雍正4年(1726年)だが、日本統治が開始されると台湾総督府は専売制を不正の温床と見做し廃止した。この変更が余りに唐突であった為、台湾製塩業が瞬く間に瓦解するのを目の当たりにし、専売制を復活させたのが明治32年(1899年)である。
その専任機関として台南塩務局を設置、その後、塩以外の専売品(アヘン、樟脳、酒、タバコ、度量衡)も含む専売行政機関として専売局を設立すると、台南塩務局の業務は専売局台南支局が引継ぐことになる。詰り、専売局成立の初期、専売局台南支局とは塩専売に特化した総督府機関だったということだ。
実は、同じ専売局遺構が台南駅北側に隣接する「台南文化創意産業園区」の中にもある。こちらも市指定古跡、文化部文化資産局登録名は「専売局台南出張所」である。この遺構(明治39年・1906年竣工)は嘗て神社(「昌南社」)が鎮座していた中庭を抱く瀟洒なレンガ造り洋館である。組織編制から言えば、明らかに支局の方が出張所より格上のはずだが、行政棟としての建屋の格は逆になっているように錯覚する。正確に表記すると「専売局台南出張所(兼)台南支局」になると思う。
前者が塩を含む専売品全般の管轄を意味しており、後者が塩のみの管轄という意味である。そして、当初は台南支局塩専売業務は、全面的に塩埕の方に移譲されていたようだ。以上のように、専売局遺構を例に採っただけでも、総督府機関の複数回に渡る組織改編も加わり、観光パンフレット、ネット上の案内、現場の案内板等々、各々の遺構に対し複数の古跡名が存在し混乱してしまう。
日本時代、台湾製塩業は大発展を遂げる。製塩から流通に渡り多くの日本本土企業が介在し、吸収、合併を繰り返した。特に、第一次世界大戦(1914~1918年)中、日本の工業化が急ピッチで進行するのに応じ、工業用塩(ソーダの原料)需要の急増が台湾製塩業の拡大を牽引する。第八代台湾総督・田健治郎が皇太子の台湾行啓を企図するに際し、巡啓地の一つに台南の塩田を加えたのは以上のような背景があったと想像される。
<「台塩」>(註2)
現在、台湾の製塩・販売は臺鹽實業股份有限公司、略称「台塩」が主に担っている。この略称は、台湾でも日本の新字体「塩」で表記されることが多くなった。又、一般消費者には「台塩生技」の商標の方が馴染みがあるかもしれない。英語名はTaiyen
Biotech、単なる製塩会社ではなくバイオ関連企業であることを前面に押し出している。台塩の公式サイトで戦前の沿革の項を見ると、僅か二行、前身となる二つの会社名が列記されているだけだ。即ち、「台灣製鹽株式會社」(1918年・大正7年設立)と「南日本鹽業株式會社」(1938年・昭和15年設立)である。
<塩田製塩の終幕>
戦後、国民政府は前者二社を接収し、1952年、台塩の前身「臺灣製鹽総廠」を設立、製塩業は国営化される。この後、世界的な経済自由化、グローバル化の波に晒された台湾製塩業も自由化の趨勢には抗しきれず、1995年、台塩総廠を法人化、その後段階的に台塩実業公司へ改編、2002年、全面民営化される。同時に276年に渡った塩の専売制も廃止された。この間、台湾産工業塩はコスト高から競争力を失い、全面輸入に切り替わることになる。
同時に、最盛期には、台湾南西部、嘉義から高雄までの台湾海峡沿いに、布袋(嘉義県)、北門(台南市)、七股(台南市)、台南、高雄と五つの製塩場を誇ったが、陸続と閉鎖され、2002年、台塩は最後まで残った七股塩田を売却、1665年開闢の塩田法に依る台湾製塩史は閉幕した。
今現在は、北門(井仔脚)、七股、台南(安順)塩田の一部が所謂「観光塩田」(テーマパーク)として運営されている。「台南を偲ぶ旅」パンフレットの中では、台湾製塩株式會社の遺構として、北門、七股塩田関連4箇所が紹介されている。又、同パンフレットの安平地区の古跡紹介の中に、現在の日塩株式会社の前身であり日本時代の台湾製塩業・流通双方の一翼を担った大日本鹽業株式會社(明治36年・1903年創業)の旧事務所と倉庫の二件も挙げられている。
<イオン交換膜製塩法の登場>
以上の変遷の間、新しい製塩法も導入される。工業化の進展に依る海水汚染と塩田法の限界である不順な天候を克服する為に、台塩総廠は、1975年、苗栗県通霄鎮内島里にイオン交換膜製塩法による製塩工場を建設する。現在の台塩実業通霄精塩廠である。沖合から汲み上げた海水をプラス/マイナス・イオンの性質を利用してイオン交換膜透析槽で濾過、この工程を繰り返し鹹水の濃度を高めた後、蒸発缶で塩を結晶化させる製法である。
天日に依る製塩法では約三週間掛かっていた上に、この間雨が降れば最初からやり直しになっていたのに比べ、この工場製法では8~10時間で塩が出来上がってしまうそうだ。工場で製造された塩を「化学塩」と呼び、塩田法に依る塩と区別する向きもあり、一般消費者は後者を自然健康食品と考えがちだが、実際は全く逆だそうだ。工場製法では、海水に混じった農薬、重金属等の人体有害物質を除去出来るからである。
<裕仁親王「安順塩田」ご視察乗船地>
ここで、裕仁親王の台南巡啓ルートに戻る。「台南を偲ぶ旅」パンフレットの巡啓地12番目の紹介は「元・安平製塩会社埋立地/現在の直轄市指定古跡・元専売局台南支局安平分室(夕遊出張所)の西北の塩水渓脇に位置(現存せず)/市指定古跡」と長いタイトルだ。「安平製塩会社」は「台湾製塩株式会社」のことだが、読み方に依っては、今は現存しない埋立地が市指定古跡のように勘違いしてしまうし、何の為の埋立地かも判らない。市指定古跡になっているのは専売局遺構(昭和2年・1927年竣工)である。文化資産局の登録名は「専売局台南支局安平分室」でパンフレットの紹介と同じである。紹介文も遺構そのものの説明だけである。筆者はこのタイトルの意味を解するのに随分格闘した。
台南巡啓二日目の最初のご視察地が塩田である。当日、裕仁親王ご一行は、この安平分室にご到着、同分室西北の塩水渓左岸埋立地に作られた埠頭から塩田ご視察の為にご乗船されたのだが、その塩運搬用埠頭が最早存在しないという意味になるはずである。この埠頭からご乗船、塩水渓河口側に向かい西進、途中で塩水渓を横断、その後、塩田内に巡らされた運河を北進、「台南を偲ぶ旅」パンフレットの13番目の巡啓地に向かわれた。安平古堡、安平老街等を擁し台南観光のホットスポットである安平地区は、地形的には南は台湾運河、北は塩水渓に挟まれているが、この塩水渓河口で嘉南大圳排水路(当時未竣工)と合流していることも付記しておく。尚、括弧内の夕遊出張所の名称であるが、安平分室遺構を修復、観光用施設として一般に開放する際にこの遺構に充てたニックネームである。日本語の「塩(しお)」の中国語音訳(シ・ヨウ)で、夕陽と遊楽の合成語らしい。
<裕仁親王ご視察塩田-「安順塩田」>
「台南を偲ぶ旅」パンフレットの巡啓地13番目、最後の紹介は「元・安平製塩会社塩田/現在の南寮塩田生態文化村/市指定古跡」というタイトルになっている。その紹介文全文は次の通りである:「台湾製塩株式会社によって安平に製塩工場が竣工したのは1923年(大正12年)です。裕仁皇太子がご乗船になった塩の運河、乗下船埠頭、御休憩所、塩を晒す大蒸発池、小蒸発池、結晶池などが今も残されています。裕仁皇太子は台湾の塩業の発展状況を把握されるために視察されました」。筆者は「今も残されてい」る全てを確認する為に、二度現場に赴いた。
場所は、先の12番専売局遺構の北側、直線距離にして約3キロ、車なら15分程度の位置になる。台南市安平区と同安南区の境界を形成する塩水渓を越し、これも台南の著名な観光スポットである四草大衆廟の北東隣にある。日本人観光客には「マングローブ林-緑のトンネル」で紹介さていると思う。マングローブ(紅樹林)に覆われた広大な湿地帯の中に形成された水路の、小さなフェリーボートに依る遊覧は特に家族連れに人気がある。塩水渓より北側、行政区画では安南区と七股区に掛けての海岸沿線は、2009年末、台湾で八番目に成立した台江国家公園(国立公園)に指定されている。
台湾は現時点で9箇所の国家公園を擁するが、台江国家公園は、都市型公園と呼ばれる。同公園を構成しているものが、海岸線、湿地帯、動植物保護区に加え、養魚場、一般人の居住・ビジネス区域を大きく取り込んでいるのが一つの理由だろう。もう一つは大都市台南市街地に隣接しているからとも思われる。裕仁親王の巡啓地、元・台湾製塩株式会社安順塩田も四草大衆廟も筆者の手元の市販地図帳では、「四草湿地」、「四草野生動物保護区」、「紅樹林保護区」の表記に囲まれている。
<南寮塩田生態文化村>
南寮塩田生態文化村の現在の行政区画は、台南市安南区塩田里に属する。現在の行政区画名がそのまま当地の歴史を証明するのは、南区塩埕里と同じである。安南区の日本時代の行政区画前身は、台南州新豊郡安順庄であった為、安順塩田と呼ばれた。戦後国民政府に接収された後は、台湾製塩総廠台南塩場として引継がれ、1996年に操業を停止した。2003年、生態文化村として復活、2009年、台江国家公園に組み込まれ、観光塩田の運営と、日本時代から引き継がれた製塩関連施設のみならず、戦後の最盛期には120余戸あった「塩工新村」の居住地(アパート)も含め保存活動が続けられている。
文化村内の建築物遺構を利用し、塩田文化館、台江鯨豚館、台江鳥類生態館が設けられているが、なにしろ開村から既に20年が経とうとしているので、展示物はすっかり草臥(くたび)れている。文化村内の各種案内板もすっかり色褪せ、判読不能のものも多い。加えて、お隣の四草のマングローブの緑のトンネルの観光客吸引力には比すべくもなく、訪問する人も疎らだ。
<「専売局台南支局安平出張所」>
塩田生態文化村に入ると、先ず直線の車道両側に塩田が拡がる。中には円形状に区切られた区画もあるので、目に飛び込んで来たどれかが、貯水池、蒸発池、或いは結晶池なのであろうが、そんなことはお構いなく、当初の目標の一部である大小蒸発池、結晶池の確認は簡便に済ませ、実質的に文化村の入口となる駐車場を目指す。そこで文化村の全体図を眺めてみるのだが、何処に裕仁親王ご乗下船埠頭やご休憩所があるやら皆目見当付かず、又、そういう案内も見当たらず、結局文化村内を闇雲に歩き廻る羽目になった。こうして第一回目の訪問は敗退した。
それでも一つだけ収穫はあった。文化村の一番奥に、これも和洋折衷木造一戸建ての遺構があった。戦後は、台塩総廠台南塩場の事務所として使われていたことは、遺構の裏側の門に嵌めらたプレートで判るのだが、現場に案内板が見当たらず戦前は何に使われていたか俄かには特定出来ず。市指定古跡「専売局台南支局安平出張所(安順分室)」である。前者が文化資産局の登録名、括弧内は終戦時の機関名である。
<「安平塩田船溜」>
二度目に同地を訪問した際、この古建築物の本来の正門から数十メートル前は、引込んだ運河の水際になっており、丁度満潮時で判りにくかったが、古いコンクリートの階段が切ってあることに気付いた。更に、筆者の目の届く範囲の運河の水際は、ぐるりとこれも古いコンクリートで保護されているのが見て取れた。その階段の脇に倒壊し草に半分埋もれた案内板があった。「運塩碼頭」(塩積出し埠頭)の見出しの紹介文を読むと、日本時代の建設であることは書いてあるが、裕仁親王ご視察には触れられていない。しかも、竣工年が西暦無しで「大正14年」とのみ記されている。これでは行啓年大正12年と齟齬を来すのだが、明らかに誤記である。市指定古跡、文化資産局登録名「安平塩田船溜」である。安平出張所遺構(大正12年・1923年竣工)と同埠頭遺構(大正8年・1919年)はペアで同局に登録されている。
以上でパンフレット12番目の台湾製塩埋立地埠頭からご乗船になられた裕仁親王のご上陸地点を確認出来たわけだが、では、何処でご休憩なされたのか?同じ、但し中文版の「台南を偲ぶ旅」パンフレットに依り、紹介されている巡啓地13箇所全てを自転車にて踏査した2015年のブログ記事に往き当たった。日本人である筆者にしてみれば、台湾人のこのような情熱としか言いようのない関心、理解、行動は驚くしかない。そのブログ記事に、裕仁親王は安平出張所内でご休憩所なさったとの説明があり、それをそのまま拠り所にすることにした。お召ボート「かもめ」号にて安順塩田埠頭に陸付けの後、そのまま真っ直ぐに進まれ正門を建物に入られ説明を受けられたのは自然である。裕仁親王の台湾行啓中のご様子は膨大な写真で記録され当時アルバムが編纂・出版されているが、台湾でも中文のダイジェスト版が『行啓記念寫真帖』とか『東宮行啓』等のタイトルで、本、電子書籍双方で出版されている。筆者の購入した電子書籍は僅か19台湾ドル(日本円70円相当)だった。
<エピローグ>
約十年前、この『台湾の声』に「苗栗県の古道」という題名で投稿したことがあり、その中で「塩の道」として苗栗県の「挑鹽古道」を紹介した。台湾海峡側で産出した塩に代表される海産物を山間部に運ぶ為の山道であり、この場合の「挑」は「かつぐ」の意だ。今回の投稿の「鹽の道」は、裕仁親王台湾行啓時の塩田ご視察の足跡と、三百余年に渡る台湾製塩史の双方の意味を込めた。旧字体を充てたのは、後者の長い歴史を鑑みてのことである。台塩の通霄工場に付設された小振りの博物館の名前は「鹽來館」、その副題に「求鹽之道」と掲げられている。筆者は「塩の道をきわめる」と読み下してみた。(終り)
(註1)但し、本パンフレットは中文サイトのみで提供されているので、日本語公式サイトに入り、中文版に切換え、ホームぺージ最下段のサイトマップから以下の順番でクリックすると辿り着ける:
「首頁」>「影音文宣」>「文宣摺頁」(3ページ目)、パンフレットの名前は「大台南日治時期懐舊之旅」。
「首頁」>「影音文宣」>「文宣摺頁」(3ページ目)へのリンク:
https://www.twtainan.net/zh-tw/media/publicationlist?page=3
(註2)特に戦後の台湾製塩業史に関しては、『台湾光華雑誌
Taiwan Panorama』2016年10月号記事「塩の結晶
台湾の製塩業の歩み」に依った。
https://www.taiwan-panorama.com/ja/Articles/Details?Guid=33da0e5b-2ca9-4156-ab32-aef0756db0c7&CatId=10&uid=e6675f48b5656d73335b10815f889944
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