【台湾紀行】「水」地名考

【台湾紀行】「水」地名考
令和2年7月18日(7月23日掲載)
西 豊穣

前々回の【台湾紀行】で阿罩霧圳を紹介したが、その記事の主役は水のインフラである小さな水門であった。そこで今回はもう少し「水」に敷衍してみたい。

台湾も水に因む地名は多い。それらを体系的に知ろうと思ったら、1938年(昭和13年)、蕃語研究会から出版された安倍明義編に成る『臺灣地名研究』が便利だ。この書はその後1987年に武陵出版より中国語訳初版が出たが、この訳本であれば台湾の大概の図書館に置いてある。又、日本語版原書、マイクロフィルム、或いはデジタル化されたものは国立図書館を始めとするメジャーな図書館、大学等の研究機関で簡便に閲覧出来るし、国家図書館のサブサイト『臺灣記憶』(註)からなら誰でも無料でダウンロード出来る。それぐらい台湾地名研究の定番、謂わばバイブルである。

安倍は第一編第四章「地名の起源」の冒頭で次のように述べて、台湾地名の派生を九つのカテゴリーに分類している:「台湾の地は古来複雑なる住民を以て沿革を経ているため自ら多様な地名の変遷を来したのである。その初めは土着蕃族の固有語を以て命名され、次で欧人の占拠時代にはその欧人の各国語によって特殊の名称を附せられ、漢族の代って統治するに及んではその文字及び言語を移して称え、我が領台後は内地名の附せられた所もあって、今は全くその原義を失い、これが遡源に困難なものも多い」。その中で殊更水のインフラが関係してくるのは「六 拓殖及び建置の当初の情景に基づくもの」の中である。この題名は、開拓及び開拓のための設置・設置物の初期状況ぐらいの意味だと思う。先ず「一例 拓殖当時の地積及び鬮取(くじとり)」として土地の面積単位である「甲」が挙げられている。筆者が住んでいる近辺では、台南市六甲区六甲が卑近な例となる。「圳」(ツヌ。日本語では「しゅう」と読む習わしである)等の水インフラは「五例 その他の情形によるもの」の中に纏められている。「圳」は中国広東省の「深圳」以外は現代の日本人に馴染みの無い漢字で、前々回の投稿記事中で灌漑水路のことだと説明したが、ここで安倍の言葉で改めて紹介すると「灌漑のため引水する溝洫(こうきょく)の義で、人工を以て掘鑿したものに係る。これ圳道・圳路なる言語の生ずる所以である」。筆者の廻りだと、屏東県九如郷圳寮がある。この場合の「寮」とは圳並びに水門等構造物の管理者詰所を意味するそうだ。

以上馴染みの無い漢語の羅列になってしまったが、『臺灣地名研究』でカバーされていない、最も卑近な水のインフラが地名として残っている。「水門」と「水源」である。これらの地名の発生は日本時代に灌漑用水、飲料水を確保するためのインフラ整備の現場となった場所で、如何に水が大事にされてきたか、その有難味が伝承されている証左と考えて良いと思う。同時にこのような場所には日本時代の遺構、それも現役で機能しているものがあるのが通常である。以下、これらの現地への探訪記である。

<屏東県内埔郷水門村>
同村の市街地内に隘寮圳の導水路が口を開けている。日本時代に建設された約1キロのトンネルを経由した、隘寮渓の鮮烈な水が豪快に落とされ市街地の真ん中を流れる。隘寮渓は台湾最大流域面積を誇る高屏渓の支流で、屏東県三地門郷と同瑪家郷の境界を形成している。このトンネルが「水門」の起こりである。この導水路に渡された、その名も水門橋を徒歩で或いは車で何度も往復しながら、その存在に最近になるまで気付かなかった。しかも、この橋の上流、下流とも導水路の両側は「水利休憩公園」として整備されている。

水門村は屏東県三地門郷と瑪家郷に隣接しているため、パイワン族、客家人、ホーロー人の混住地域であり、筆者にとってはこの方面の山々に登山する際の交差点である。しかも、自動車道上には「水門」の道路標識もある。それでもその意味に思いを致すことを実に二十年近くも怠っていた。このブランクを断ってくれたのは、これもよく立ち寄る同村内にあるコンビニ内の壁に掛けられていた導水路の古写真であった。

水利休憩公園内に、屏東水利会に依る隘寮圳の由来を記した案内板が立っている。その由来の中には日本、日本人、日本年号等日本時代に関わる記載は一切無いが、翻案しながら訳出したものを掲載する:

現在水門村内に設営されている「水利休憩公園」内の導水路は、通称「碰坑」と呼ばれている。「碰」(日本語読みは「ホウ」)はぶつかる、出会うの両方の意味があるが、水門村の導水路の場合、その両方の意味が掛けられ、隘寮渓から引き込まれた水がトンネルを経由し轟轟と導水路に流れ落ちる様を形容したものだ。隘寮圳の起源は清朝康熙30年(1691年)迄遡る。当時隘寮圳の灌漑対象の中心地は「火焼庄」(現在の長治郷長興村付近)だったため、「火焼圳」と呼ばれていた。日本時代、大正10年(1921年)、隘寮渓沿いに塩埔堤防を建設、同時に隘寮渓からの取水、灌漑システムの整備・拡充を実施、沿線の農田水利を大いに助することになった。この時、火焼圳から隘寮圳へと改称された。昭和10年(1935年)になると、隘寮渓の流れが北側に移動、このため、塩埔堤防からの取水が日に日に困難を極めたため、現在の水門村に導水口を設けることを企画、取水口からトンネル経由での導水工事に着手、昭和13年(1938年)に総延長1,013メートルの導水路が完成した。

<苗栗県苑裡鎮上館里(水門庄)>
国道(高速道路)1号線を北上、台中市街地を抜け、馬とサキソフォンで著名な后里を過ぎると、大きな下りとなり大安渓を渡河、その後更に大きな登り坂に転じ三義インターへ至る。高速道が下りに転じる辺りからドライバーの左手、大安渓右岸に煉瓦色の悪地地形(悪地:badland)を露出させた山が見えて来る。標高602メートル、地籍三等三角点が埋定された、台湾小百岳の一座、火炎山である。文字通り、その煉瓦色の亀裂を炎に見立てた山名だ。悪地は正式な地理用語で、ウィキペディア日本語版に「結合度の低い堆積相や粘土相などが風雨により極度に侵食され、峡谷状の涸れ谷になった荒地のことで組織地形の一種」という簡潔な説明があるが、そのままである。火炎山の場合、大振りの球状の卵石(或いは鵝卵石)の礫岩地層が露出しており、独特な景観を創り出している。

素人目にはこんな山にどうやって登るんだろうと訝るが、同山の主稜を跨ぐ古道が三本あり、それらを利用した歩き易い登山道が確保されている。火炎山の主稜は苗栗県三義郷と同苑裡鎮の境界を形成しているが、その苑裡鎮側に起点のある古道を地図上で確認している際、「苑裡圳入水口」の標記を見付けた。大覇尖山を源頭とし台湾第7位の流長を有する大安渓よりの取水路である。試しにサイトを渉猟すると、現代の取水口から100メートル内側に古取水口が現存しているとの情報を得た。しかも、火炎山メイン登山口駐車場から目と鼻の先、駐車場脇を走る苗栗県県道140号線を西側に走り、火炎山隧道を抜けてしまうと直ぐに出会うことになっている。

苑裡圳は東側苑裡鎮南勢里と西側同上館里の境界線を形成している。取水口付近西側の地名は地図上は「上館」になっているが、同時に括弧付きで(水門)と標記されている。現地では寧ろ「水門」の表示が多い。道路標識は「水門庄」と日本時代の行政区画名そのままだし、バス停も「水門」だ。

現在の大掛かりな取水口システムは、県道脇南側にあるので直ぐ判る。その取水口は「進水門」、「排水門」、「制水門」から成るコンクリートの塊りであるが、素人の筆者には区別が付かない。苑裡圳はこの県道を横切る形で始まるが、その先の水路の両側は藪が雪崩れ込んでおり、東側は砂利採取場、西側は民家兼自動車修理工場みたいな塩梅で、100メートルがどの位の場所なのか見当付かず。砂利採取場側から藪を掻き分け水路を覗き込んでいたら、そこで仕事をしていた男性が近寄って来て、何をしているのか?尋ねるので事情を説明したら、それなら向い側の民家を訪ねるのが良いと教えてくれた。

実際そうしたら、探していた古水門はその民家の一部として収まっていたので、こういう例もあるのかと嬉しくなった。もっと具体的に言うと、民家脇は狭い畑になっており、その畑の先に水門が起立しているのである。この古水門はコンクリート製ではなく、水門構造物全体が煉瓦状の石積みで築かれているのが大きな特徴である。民家のご主人曰く、以前は良くこの古水門の調査に訪れる人が多かった、但し、この水門は日本時代のオリジナルなものではなく、復元されたものだ。

民家の古水門が上部構造の全貌を現しているのは取水口側だけで、裏側が見えない。それで裏側から見るにはどうすれば良いのか尋ねると、砂利採取場の横に道が付いているのでそれを辿れば良いと教えられた。そこには当然だが件の民家を見上げるような恰好で、火炎橋が架かっており、四連のミニ拱橋(アーチ式橋)である取水口とその上部構造を観察出来る。オリジナルか復元か?はどうでも良いと思えるぐらいに優美な石積みである。この大正3年(1914年)竣工の古水門を筆者が訪ねたのは、2019年8月、その後2020年1月になり苗栗県県定古蹟に指定されたとのニュース記事を見付けた。その記事に依ると、指定理由の一つが、台湾唯一の石積み様式水門だと謂う。又、同じ記事中に、苑裡圳開闢は1818年(嘉慶23年)に遡るとある。

この古水門を自身の畑に囲い込んだその民家は、もう一つ日本時代の古蹟も抱き込んで、家屋の一部と化していた。火炎山の鵝卵石で構築された堤防、正式には「火炎山堤防」である。筆者が訪ねた時は、その堤防上で生姜(ショウガ)が晒されていた。その堤防は古水門から西側に延び、件の民家と横並びの数軒の家屋の裏側を横切っているが、そこで断たれている。他方、県道140号線北側には大安渓右岸沿いに、同じ鵝卵石で精緻に構築された堤防の堤防たる機能を残して伸びている。この堤防も百年古蹟、しかも水門と堤防、ふたつながら現役である。

取水口から暫くは苑裡圳は古撲な小さな集落の間を流れる。適当な路地を選んで入り込んでみると、大木の袂に小さな公園仕立ての涼み台とも呼べる空間が設えてあり、その下を苑裡圳が流れていた。その流量と清烈さに加え、既に百年を越えて基本的には当時構築した流配水のシステムを維持させ続けて来た、当時の業(わざ)に驚嘆するのだ。

<花蓮県秀林郷水源村>
前回の投稿記事(【台湾紀行】南蕃騷擾殉職警官碑、令和2年5月19日)の最後の段でニュース記事を転載したが、その中に「アミ族の労働者と日本の警察との紛糾が武力衝突に発展した七脚川事件(1908年)」との下りがあった。嘗てその所縁(ゆかり)の地を訪ねようと地図を眺めていたら、七脚川の標記がある北側に「水源村」の標記を見付け、恐らく日本時代からの水源地であろうと推察し探訪地に加えることにした。

水源村が属する花蓮県秀林郷は、台湾の郷・鎮レベルでは最大の行政区画面積を擁する。例えば、日本人にも馴染みのタロコ国立公園の大部分(他に台中市、南投県)を抱合する。主要住民はタロコ族であり、これは水源村も同じである。水源村は東側で花蓮市と吉安郷に接する。タロコ族パゼク社の移遷先らしいが、筆者は原集落地を特定出来ず。水源が正式な行政区画名になったのは、戦後、1958年であるが、日本時代から花蓮市街地へ上水を供給していた。当時の地形図を見ると、娑婆礑(サパト)渓上流を取水口とする「花蓮港水道」の標記と上水道路が明記されている。現在でも、水源橋右岸脇に、台湾自来水公司娑婆礑浄水場と抽水站(取水場)がある。その敷地内外を歩き廻ってみたが、一軒の倒壊寸前の家屋の他、日本時代の名残りには出会えず。尚、娑婆礑渓は現在では美崙渓と呼ばれ、花蓮市街地を流れた後最後は花蓮港に注ぐ。同じ市街地内、花蓮県政府東側にある美崙山(標高110メートル、陸測一等三角点、日本時代は「米崙山」の表記)に因んだ命名である。

今回の投稿記事を閉じる前に、現代日本人には馴染みの薄い前述の「七脚川」及び「七脚川事件」に触れておきたい。七脚川社(集落)の現在の行政区画名は、花蓮県吉安郷太昌村七脚川社区に相当することになるが、元々はもっと広汎に吉安郷一帯を指すアミ語の漢音訳である。日本時代は片仮名で「チカソワン」とも表記された。吉安郷は花蓮市の南隣り、花蓮県では花蓮市に継ぎ人口が多い。花蓮市とそれに隣接する南北部一帯に居住するアミ族は南勢アミ族と呼ばれ、アミ族居住地の北限とされており、七脚川社は嘗てこの南勢アミ族の最大集落であったという。七脚川事件後、台湾総督府に依り強制的に移遷させられた後、徳島県吉野川流域に居住する人々が入植、花蓮港庁吉野区吉野村が形成されるが、現在の地名「吉安」は、その吉野とチカソワンを掛け合わせて命名したように思える。

今回の投稿記事の冒頭で『臺灣地名研究』を持ち出したので、安倍がどう「七脚川」を紹介しているか付け加えておく:「古くは竹脚宣と書き、アミ族蕃社即ち古の崇爻九社の一のチッカツォアンである。チは接頭語、カスイは薪の義、アンは所在を現す語で、地名は薪の多い所の意である。明治四十一年暮反抗して討伐をうけ、翌四十二年三月帰順を許され(た)」と七脚川事件にも言及している。武力衝突、或いは、反抗は、当時北側山域中のタロコ族に対する隘勇線(対原住民防御線)構築のために徴用された、七脚川壮丁に対する給与支払い不履行に端を発したと言われる。樟脳を代表とする森林資源商品の開拓を目的にした、台湾総督府の所謂「理蕃事業」推進の初期過程での原住民との武力抗争事件として、台湾内では関係者の啓蒙尽力のお陰で次第に知られるようになったが、日本では殆ど知られていない。当時台湾総督府は、この事件のことを単に「花蓮港蕃人暴動事件」と呼んでいたに過ぎないこともその所以であろう。

ところが、日本に於ける七脚川事件認知度に関し、例外が一つだけある。靖国神社の第二鳥居の両側に大燈籠が起立するが、その左側燈籠に嵌め込まれた陸軍関連の銅板レリーフの一枚は、七脚川事件の戦闘状況を題材にしたものである。各レリーフは短い紹介が銅板上に付されているが、そのレリーフには「台湾理蕃 明治四十一年十二月七日七脚川社討伐ニ際シ警官隊ノ戦闘」と刻まれているはずだ。「はずだ」と書いたのは、筆者自身も確認しに行ったことがあるが、当時撮影した写真を探し出せずにいるからだ。このキャプションは筆者が十年以上も前に或る日本語サイトで探し出したものだが、このサイトは削除された模様だ。靖国神社に依ると、日本の台湾領有の間、原住民との武力抗争を意味する「台湾征討」の日本人戦死者1,130人が同神社に合祀されているのだが、何故その代表として七脚川事件が選ばれたのか?筆者には推測が難しい。

2011年になり、七脚川社区の東隣り、同郷慶豊村大山社区内に「七脚川事件紀念碑」が建立された。日本時代の記念碑様式を模した四角錐の大モニュメント、高さ5メートルは優にあろうかと思われ彼の地の天を突くような勢いがあり、吉安郷の新たな観光スポットとして喧伝されている。(終り)

(註)国家図書館『臺灣記憶』サイト: https://tm.ncl.edu.tw/index


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