【台湾紀行】六亀特別警備道-北段

「台湾の声」【台湾紀行】六亀特別警備道-北段
令和4年9月18日
西 豊穣

<プロローグ>
 先ず、私事都合により、前回投稿との間にかなりの時間差ができてしまったことを深くお詫びしたい。

 前回投稿は過去『台湾の声』に投稿した記事の再録という形で、最近頓(とみ)に台湾ネット上で露出度が上がって来ている当該古道紹介のダイジェスト版を掲載していただいた〔令和4年3月20日配信「【台湾紀行】六亀特別警備道(再録)」〕。今回と次回は同古道全体を南北の二つに分けて、台湾版東海道五十三次である最近の本古道の全体の状況を、あくまで一般のハイカーを意識して紹介したいと思う。尚、再録版でもオリジナルの投稿内容を一部アップデートしたが、今回の記事も更にアップデートした部分があることをご了解願いたい。〔編集部註:歴史的考察の都合上、現在は使用されない当時の呼称を使用している箇所がある〕

<「特別」の由来>
 現在、六亀「警備道」とか六亀「警備線」と通称される、唯一の台湾南部地区の隘勇線は、大正5年(1916年)、当時高雄州旗山郡蕃地内に設営された。実際その前身は[艸/老]濃渓左岸・右岸隘勇線(順に明治39年/1906年、大正4年/1915年)として開鑿された(註1)。筆者はこれまで当該古道名に「特別」を冠してきたが、筆者自身その経緯(いきさつ)があやふやになっているので、三本目の隘勇線がなぜ特別と称せられたのか再確認してみた。確かに台湾側の戦後の学術資料の中には「六龜特別警備線」という名称が用いられているものもある(註2)が、その由来の説明に行き着かず。日本側の戦前の資料だと単純に「警備線」とか「警備線道路」の表記になっている(註3)。最後に、台湾総督府警務局編纂『理蕃誌稿』の大正4年・5年の部分(註4)を追い掛けてみた。大正4年報告の中に「六龜里事變」の項目があり、[艸/老]濃渓左岸隘勇線に加え、「特別警戒線」として[艸/老]濃渓右岸隘勇線を増設する旨の経緯が記されている。更に、翌大正5年報告の中に「六龜里支廰ノ防備線新設」の項目があり、その報告の中で、二本目の隘勇線である前述の特別警戒線は「特別警備線」と言い換えられ、新設の三本目の隘勇線に関しては以下の記述がある:

「管内及臺東方面ノ施武郡蕃ハ(中略)屢屢六龜里支廰管内ニ出草シ我警備員及製脳業者ノ蕃害ニ罹リタルモノ尠ナカラズ(中略)蕃地ニ於ケル保安ヲ維持シ且ツ事業者保護ノ為電流装置ノ鐡條網ヲ副装備トスル防備線ヲ新設」

「此ノ延長十三里十八町(筆者註:約53キロ)トス」

「築寮(筆者註:この場合警察機関駐在地の意)ハ全線ヲ通シテ監督所四、(筆者註:原文は句読点なし)分遣所五四二シテ各分遣所間ノ距離約九町(筆者註:約980メートル)トス」

「工事期間ハ作業開始ヨリ向フ五十日間トス」

 伊能嘉矩・粟野伝之丞共著『臺灣蕃人事情』(註5)の中で、ブヌン族は地理的に四群に分類されており、施武郡(セブグン)蕃は最も南側のブヌン族集落群だった。[艸/老]濃渓左岸「日本橋」を出発、左岸稜線まで一気に駆け上がり稜線を忠実に南進、その後[艸/老]濃渓の支流、宝来渓を渡河、左岸をもう一度稜線まで這い上がり南進、その後同じ[艸/老]濃渓の支流である邦腹渓、三合渓の順に左岸稜線をひたすらに南進、最後は再度[艸/老]濃渓左岸稜線を濁口渓との合流地点、「大津」まで南下していた。先行する二本の隘勇線が現在の行政区画では高雄市六亀区に設営されたのに対し、新設の三本目は、更に中央山脈に寄り、同市桃源区と茂林区に跨り、最後は茂林区と六亀区の境界を辿った。

 これまで筆者が紹介して来た現在の古道としての六亀警備道は、この大正5年に新設された防備線ということになる。この防備線に「特別」の名を冠することは、その前身の特別警戒線、或いは特別警備線と混同している可能性がありそうだ。いずれにしても、学術上「特別」の二文字が冠されるべきかどうかは現代の台湾人ハイカーにとりどうでもよいことである。彼らの関心は五十四箇所の駐在所に日本の歴史上著名な東海道五十三次の宿場名が冠されたということ、遺構の残存状況の良し悪しはあるがまだ確認可能なこと、更に、それらの遺構を構成する石塁の出来栄えだ。残念ながら筆者が目を通した限り『理蕃誌稿』にも東海道宿場名を充てることになった経緯は記されていないようだ。繰り返しになるが、五十四とは日本橋を加えたもので、三条大橋分遣所は存在しない。また、四箇所の監督所とは北から順番に上宝来、頭前山、バリサン、マガである。

<「隘勇線」と「駐在所」>
 これら二つの用語は筆者の過去の投稿の中で頻出するのだが、読者の知見に頼り切りこれまで纏まった説明を供したことがないことに気付いた。多少長くなるが、近年の二編の台湾側学術論文(註6、7)に依り『台湾の声』読者のためにその関係を整理してみた。

 日本統治時代の原住民に対する警察機構(「蕃地警察」)の基礎は、隘勇線から始まり駐在所へと変遷していったという経緯がある。但し、両者の発生起因は異なる。隘勇線の起源は清代の漢人開拓者と原住民との、謂わば「棲み分け境界線」である。日本統治当初、台湾総督府は、原住民に対する漢人の自警団防衛的性格の強かった、最終的には官制化された、清代の隘(勇)制度を踏襲する。元々の眼目は「殖産興業」、樟脳製造に代表される森林資源確保とその経営の円滑な運営である。

 ところが、特に中・北部原住民の抵抗に遭遇する。明治35年(1902年)発生の南庄事件(現在の苗栗県南庄郷、当時は第四代台湾総督児玉源太郎治下)が転換点となり、隘勇線はこれら原住民に対する威圧・威嚇の手段として包囲線・封鎖線へと変遷する。隘勇線上には、隘寮、分遣所、監督所(後に警戒所へ併合)、駐在所の警察機関が配置された。隘寮には警手(日本人)・隘勇(漢人)が詰め、巡査が駐在する各分遣所が二~四箇所の隘寮を指揮した。さらに警部・警部補が監督所に駐在し、傘下に複数の分遣所を管理した。六亀警備道の場合、各監督所が10箇所を超える分遣所を管理していたことになる。

 隘勇線網は全台湾9区域に集中して設営されたが、南部は六亀地区が唯一、残りは全て中・北部だ。大正4年(1915年)、タロコ戦役を以て五箇年理蕃事業計画が終了、原住民の総督府への帰順が進むと、隘勇線の多くが撤廃・整理され、蕃地警察上重要なものは警備線化・理蕃道化が進む。大正13年(1924年)には隘勇線上の全警察機関を排し、警察官吏駐在所への併合が始まる。昭和5年(1930年)にこの代替は完成、同時に台湾隘勇制度は終了する。以上の経緯を鑑み、本投稿では対原住民警察機関を継続して「駐在所」と統一して呼称することにする。

<六亀警備道北段と南段>
 前回の投稿で記したように、総延長約60キロの全段を便宜上南北段に分けるのは最近のトレンドだ。少なくとも筆者が当該警備道に興味を持ち出した十五年程前にはなかったと記憶する。昨今の武漢肺炎禍に依る実質的な海外渡航禁止は確実に台湾島内のアウトドア活動の新需要を掘り起こしている。

 最近の台湾のサイトで公開されている六亀警備道全段を通した出色の踏査記録は、国立成功大学山岳部(「成功大学登山社」、略称「成大山協」)に依り2020年12月~2021年5月に掛けて山中二泊三日行を5回繰り返したものである。以下、当該チームの踏査目録(註8)である。括弧内の東海道宿場名は筆者の方で書き加えた:

1) 日本橋段、小関山林道段、沼津段(日本橋~神奈川、保土ヶ谷~箱根、三島~沼津)
2) 渓南西峰段、藤枝段(原~吉原、蒲原~藤枝)
3) バリサン段、見付段(島田~袋井、見付~白須賀)
4) 御油段、鳴海段(二川~池鯉鮒、鳴海~石薬師)
5) 五公廟段、マガ段、大津段(庄野~亀山、関~坂下、土山~大津)

 日本では東海道五十三次の中間点は袋井宿とされる。六亀警備道全段の一般ハイカーへの浸透が然程高くはなかった以前も、その南半分は登山道としてよく歩かれてきたコースである。具体的には、見付山への登山口としての第26宿「掛川」以南、27宿「袋井」を経て28宿「見付」を擁する見付山を最北として、榆油山、南鳳山、御油山、嗚海山、網子山(四日市)、
真我山の順に辿る、全コース約30キロ。通常一泊二日を要するが、一日で歩き(実際は走り)切る猛者もいる。成大山協の目録を借りると、1)と2)が北段、3)以下が南段となる。

 筆者がこれまで踏査したのは58箇所中35箇所だ。あくまで『台湾の声』読者が警備道全体を俯瞰するために、先ずは誰でもが特別な技術、装備を具有せずとも確認できるはずの出発地点、中間点付近、終点を中心にした紹介にする。具体的には、北段は、「日本橋」+「品川」、小関山林道段、沼津段、藤枝段、南段はバリサン段、見付段、終点「大津」段の順となる。

<「日本橋」と「品川」>
 筆者の六亀警備道の踏査行は2006年2月に始まった。始めは「日本橋」駐在所跡地を目指した。現在の高雄市桃源区区役所(行政区画上は桃源区桃源里、日本時代のブヌン族ガニ社)の[艸/老]濃渓右岸を隔て対岸にあることまでは『三十萬分一、臺灣全圖(第3版)』(昭和9年、台湾総督府警務局発行)(註9)にて確認済みだったが、対岸の何処なのか縮尺故検討附かず、前稿で述べたように同駐在所跡地に知見のある現地案内人に出遭えず、とにかく対岸に渡りそれらしい遺構に当たるかどうか試してみようという程度だった。結局それらしき遺物には当たったのだが、日本橋跡かどうかを確認する手立てもなく、二回の踏査行後、長らく放り出していた。昨年になり、『日本時代臺灣蕃地駐在所建築之体制與實務』(林一宏著、中原大学、2017年)(註10)と題する論文中に「日本橋」駐在所のGPS情報も提供されている旨、六亀警備道と所縁(ゆかり)の深いK大学勤務のM氏に紹介頂ける機会があった。その巻末に原住民居住区に於ける駐在所一覧があり、合計853箇所が網羅されている。驚くべきことに、それらの殆どにGPS座標が附されている。但し、それでも六亀警備道上の58箇所の駐在所全てはカバーされていないように見受けられた。運よく「日本橋」はリストアップされていた。

 今年1月に現地に赴いた。実に16年振りの同地踏査だ。区役所を始めとする集落が載る[艸/老]濃渓右岸の河岸段丘の標高は約615メートル、これに対し日本橋駐在所が設置された対岸左岸の小振りの河岸段丘の標高は約560メートル、50メートルの高低差がある。以前は集落から対岸へ渡るのに河床に道路が敷かれていた。現在は普通車通行可能な
[口|戛][口|拉]鳳(カラブン)吊橋が掛かっている。2014年竣工、全長180メートル弱、吊橋名のカラブンと旧社名ガニとの関係は判らず。吊橋を渡り切り右折(南下)、ガニ農路主線を数百メートル辿ると[艸/老]濃渓へ突き出るように造成された農園に導かれる。その農園が対岸の区役所を含む集落と対峙する場所に小さな梅園があった。その梅園の中はその河岸段丘を構成する大小の自然石が散らばっており梅園に趣を添えている。それらの中によく見ると明らかに人が積上げた石の集合体が三基あった。その中の一つは四辺を持つ台状になっているのに気付いた。先達研究者の特定に至った努力に敬意を表した。他方、筆者はこれまで台湾ネット上で日本橋跡地踏査記録を目撃したことがない。上記の成大山協レポートでも日本橋段と謳いながら日本橋そのものの踏査はスキップされている。不思議と言うしかない。尚、日本橋探訪に特別な技術、装備は必要ないことをコメントしておきたい。

 せめて第1宿「品川」駐在所遺構までは確認しておきたいというのが人情である。日本橋探訪の翌月出掛けた。同遺構の在処が奇特なハイカーの登山対象になっている留佐屯山西峰山頂付近という知見はあったが、各ハイカーの同山への山行記録を閲覧するとこの遺構に言及したものは非常に稀だ。カラブン吊橋を渡り日本橋方向と同じく右折すると、直ぐに留佐屯山西峰方面へのガニ農路支線三叉路に出会う。四駆は必須とされる悪路を普通乗用車で挑戦した。カラブン吊橋から品川跡地と目される留佐屯山西峰頂上に至る登山口まで、落差600メートル、距離7~8キロを見込んでいた。当日、農路支線約1.5キロ地点で農道は土砂崩れによる倒木のために封鎖、運悪く前日か当日早朝に発生したものと思われた。そこから徒歩を強いられたが、3キロ弱で登山口となる農業用貯水タンクに辿り着いた。その貯水タンクを横切り斜面を僅かに上がると、警備道跡を想起させる窪地に出会う。そのまま辿ると石塁の残骸を見付けた。品川跡地の石塁は残存状態の良いものは見当たらず、石積みの残骸が散乱しているような塩梅だった。嘗て生活空間だったことを証明する、ビール瓶を代表とするガラス瓶と隘勇線特有の通電用碍子(がいし:前出の「電流装置ノ鐡條網」)が複数箇所で掘り出されている。その中に、瀟洒なガラス瓶があった。化粧水か薬液かは判らないが、ビン底に旭日旗に似たものがあしらわれている。ヤフーの古瓶のオークションの中に同じ物を見付け、少し驚いた。留佐屯山西峰頂上は地形的に突出してはいないので、GPS情報は手元にありながら台湾総督府殖産局森林課埋定の三角点を探し出すのに苦労した。そこから第2宿「川崎」、3宿「神奈川」方面へどう辿るかは考えないことにした。品川遺構を確認できただけで善しとしたからだ。

<小関山林道と「小田原」・「沼津」>
 [艸/老]濃渓左岸畔の日本橋を皮切りに、左岸の急斜面上に品川、川崎、神奈川の順に設営された六亀警備道は、稜線に到達後暫く稜線伝いに南下した後、[艸/老]濃渓の支流である宝来渓右岸を下り、そのまま渡河、再び左岸を這い登る。現在この段の駐在所遺構は、警備道を襲い開鑿されたと想像される小関山林道沿線上で駐在所遺構を確認できるものと、林道から登山活動を伴う駐在所遺構へのアクセスが必要なものに分かれる。前者は第4宿「保土ヶ谷」、5宿「戸塚」、6宿「藤沢」、7宿「平塚」、8宿「大磯」、10宿「箱根」、後者は第8宿「小田原」、11宿「三島」、12宿「沼津」である。筆者の今年年初のこれらの段への踏査行は、当日の林道の状況を鑑み藤沢~沼津間に限定、先ず一日目に三島、沼津、二日目に残り全部を踏査したが、実際はこの間、一日でもカバーできる密集振りだ。小関山林道「沿線」の駐在所遺構踏査と云う表現をしてしまうと、林道と実際の六亀警備道との重なりが相当ありそうなイメージになってしまうが、同林道約10~17キロ区間、僅かに7キロ程度に過ぎない。林道から外れて踏査をする必要のある三駐在所跡地については、技術、装備面上は低山の登山経験があれば大丈夫だが、ガイドは必要だ。と言うのは、通常の登山道と異なり、ルート沿線にハイカー誘導のためのマーキング等が一切ないからだ。

 小関山林道は、名前が示唆するように台湾百岳の一座、小関山(標高3,249メートル)登山口まで続いている。同座は北大武山、卑南主山と並ぶ台湾南部人気百岳の一座だ。林道全長38キロ、嘗てはそのまま日帰りで小関山頂上往復が可能だった。筆者もその恩恵に浴した一人だ。その後、八八水災に見舞われ、各処で林道が寸断され相当期間封鎖された。今現在26キロまでしか車が入れない。そこから登山口までの林道は完全に崩壊、歩かなければならないので、最早「日帰り可能な百岳」ではなくなった。筆者が六亀警備道踏査に利用した元旦の連休、林道入口の検査哨にて何人ぐらい入山しているのか質問したら、300人位との答えが返って来て仰天した。

 今回の二日間の踏査行の中でどうしても尋ねたかったのは、小田原と沼津駐在所遺構である。規模が極めて広大と聞いていたからだ。小田原駐在所跡地の場合、林道からの距離と落差は各々凡そ200メートル、50メートル(登り)だった。斜面上に設営された駐在所で石塁の残存状況は決して良くはないが、人の背丈を優に超える長大な石塁が重なり合うように残存する。ぐるりと見渡しても何処が駐在所敷地なのか判然としないぐらい広い。筆者は測量ツールを持ち合わせておらず、広大、長大を数字化できないのだが、筆者が踏査したことのある警備道上の他の駐在所遺構をベースにすれば、敷地面積としては最大ではないかと想像する。

 沼津駐在所跡地へは、林道沿線上にある箱根跡地を過ぎた後、林道を離れ宝来渓に向かい急降下、2キロに満たず到着した。林道との高度差は300メートル弱、往復歩行時間だけを考慮すると2時間で十分である。沼津遺構との出会いは、あっ、という視覚衝撃から始まる。目測大凡幅2メートル半、高さ1メートル、長さ40メートルの完璧な残存状況を呈した石積みの回廊、台湾人の言う「浮築橋」に迎えられる。浮築橋とは、路肩を石積みで補強した道路構造で、「自然石に依る路肩擁壁」とでも呼べよう。六亀警備道上で典型的に採用された道路構造で、ハイカーはその精緻さに一様に驚嘆する。台湾ではこのような石積みの壁は「駁砍」と通称しているが、筆者自身は「石塁」、「石垣」、「石積み」等を横断的に使用している。その回廊の先に、日本人なら思わず「大手門(追手門)」を想起させる駐在所正面門が待ち構えている。そう、正に山中の城である。更に宝来渓方面に進んだ先にある裏門も搦手(からめて)門の風情がある。沼津駐在所遺構の場合、その敷地も広大だが、浮築橋、正門、裏門、敷地囲み等の石塁の残存状況が殊更良好だ。尚、両駐在所の実際の遺構の一部は筆者のブログ(註11、12)で紹介してあるので参考にして欲しい。

<藤枝国家森林遊楽区と「藤枝」>
 既に再録版でも紹介したように、八八水災(モーラコット台風)時発生した広範な土砂崩れのために、以後実に12年の歳月を経て漸く再開園を果たした同公園だが、その後も台風、大雨の度ごとに閉園を余儀なくされている、旧京都帝国大学演習林を利用した公園内には、六亀警備道上の三箇所の駐在所遺構が保存され来園者に供されている。即ち、第19宿「府中」、20宿「鞠子」、21宿「岡部」で、現地には修復された石塁遺構と共に林務局の解説板が立っている。入園に際し特別な技術、装備等を要求されることはないので、誰でも最も安全な六亀警備道探訪が可能だ。但し、一つだけ難点がある。同公園は四本の歩道から構成されているが、警備道を実際歩くためには、園内最高地点である東藤枝山(標高1,804メートル)まで辿る必要があることだ。この一座、嘗ては台湾小百岳の一座だったが、長い休園のためにリストから除外されてしまった。それでもハイカーの間では人気のある一座で、休園中も盛んに登られていた。もう一つコメントすると、公園名に第22宿「藤枝」の名が冠せられているにもかかわらず、藤枝駐在所跡地が何処なのか、筆者はこれまで何の手掛かりも持ち得なかった。林務局同遊楽区の公式サイト内の案内図(これは園内の案内板にそのまま使われている)には明確に「藤枝警備駐在所遺址」と記載されているが、実際は府中駐在所の位置だ。しかも本来園内には四箇所の駐在所が存在したはずだが、一箇所のみの標記だ。筆者の手元の市販地図帳も林務局と同じ位置に「藤枝駐在所遺址」の標記のみだ。

 このフラストレーションを一気に解決してくれたのは、日本橋と同じく林一宏の『日本時代臺灣蕃地駐在所建築』目録中の位置情報だった。曰く「森濤派出所、林務局藤枝森林遊楽区入口旁」、なーんだと拍子抜けした。公園入口に並立する森濤派出所(正式には高雄市政府警察局六亀分局森濤派出所)は、六亀警備道上の旧駐在所の中で唯一戦後もそのまま生き残った警察官吏処と言えるかもしれない。だが、六亀警備道設営時の藤枝駐在所位置と現在の森濤派出所位置が果たして同一かは疑問が残る。六亀警備道は[艸/老]濃渓左岸上と宝来渓右岸・左岸上に開鑿された部分を除き基本稜線上に開鑿されたと予想されるので、園内に残る他の三箇所の駐在所跡のGPS座標を筆者自身プロットしてみると、藤枝跡地、即ち森濤派出所の位置は西側に外れ過ぎているのではないかと疑問を持った。前出の成大山協の記録は岡部から稜線上南側に、第23宿「島田」へ連なると予測される駐在所遺構を藤枝跡地として特定している。いずれにしろ、六亀警備道の認知度が上がってきたにもかかわらず、その起点たる日本橋跡地の話題性が余りにも低く思われるのと同様、高雄市北部の人気行楽スポットの森林公園内の旧駐在所跡地の取り扱いは理解に苦しむところだ。

 次回は東海道五十三次の中間点「袋井」を含む段と、最終段「大津」を中心に六亀警備道南段を紹介する予定だ。(続く)

(註記一覧)
(註1)鄭安晞『日治時期隘勇線推進與蕃界之內涵轉變』、中央大學人文學報、第五十期、131~208ページ、2012年4月出版、中央大學文學院
http://lit.ncu.edu.tw/ncujoh/word/5541212017.pdf

(註2)『台湾演習林植物調査報告』第四十図(一予報、1931年、
植物調査班、京都大学デジタルアーカイブシステム)
https://peek.rra.museum.kyoto-u.ac.jp/ark:/62587/ar22883.61802/do000332373.jpg

(註3)林世超建築師事務所『原六龜里池田屋(六龜鄉高雄客運六龜站)調查研究及修復計畫』(49ページ)「六龜特別警備線」照片、高雄県政府、2004年出版、「臺灣記憶」、國家圖書館
https://tm.ncl.edu.tw/article?u=022_001_00000774&lang=chn

(註4)台湾総督府警務局『理蕃誌稿-第4編』「六龜里事變」(96ページ)、「六龜里支廰ノ防備線新設」(255ページ)、昭和7年出版、国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453004

(註5)
笠原政治著、陳文玲翻訳『日治時代台灣原住民族研究史-先行者及其台灣踏查』国立台湾大学出版中心、2020年
https://books.google.co.jp/books?id=OCddEAAAQBAJ&newbks=0&printsec=frontcover&pg=PA98&dq=%E5%B8%83%E8%BE%B2%E6%97%8F+%E6%96%BD%E6%AD%A6%E9%83%A1%E8%95%83%E3%80%80&hl=ja&redir_esc=y

(註6)林一宏『戟戰奇萊─隘勇線與駐在所』、『臺灣學通訊』第82期、2014年7月出版
https://wwwacc.ntl.edu.tw/public/attachment/47119553437.pdf
(註7)鄭安睎『從隘勇、警手到蕃地警察』、國立臺灣圖書館《臺灣學通訊》第88期
http://taiwannokoe.com/ml/lists/lt.php?tid=yAXJqT/NS4mdyjLaD9wdSqERr+Z6w/x8rleUNbQ1x47RhX6i/pOSNI5qjVXnRVCv

(註8)成大山協「六龜警備道踏査00」:目録
https://www.ptt.cc/bbs/sttmountain/M.1613058030.A.BAD.html
https://www.pttweb.cc/bbs/sttmountain/M.1626939537.A.836
上段は目録のみ。下段は「六龜警備道踏查03」の記録であるが、その他全記録を収録。

(註9)地理資訊科学専題中心『臺灣百年歴史地圖』
http://gissrv4.sinica.edu.tw/gis/twhgis/#4

(註10)林一宏『日本時代臺灣蕃地駐在所建築之体制與實務』(2017年、国立中原大学)
https://www.ntl.edu.tw/public/ntl/4216/%E6%9E%97%E4%B8%80%E5%AE%8F%E5%85%A8%E6%96%87.pdf

(註11)筆者ブログ『六亀特別警備道-47:第9宿「小田原」』
http://taiwan-kodou.com/article/487565562.html

(註12)筆者ブログ『六亀特別警備道-51:第12宿「沼津」』
http://taiwan-kodou.com/article/488264887.html


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