【台湾紀行】裕仁皇太子台湾行啓-高雄巡啓と壽山古道

【台湾紀行】裕仁皇太子台湾行啓-高雄巡啓と壽山古道
令和3年1月24日
西 豊穣

<プロローグ>
新年初回の投稿記事になるので、縁起の良い漢字「壽(寿)」を多用しつつ、筆者の居住する高雄市街地の裏庭、柴山こと壽山を紹介させていただきたい。

 東西約2.5キロ、南北約5.5キロ、最高点が350メートル弱の壽山は、三百六十五日、明け方から夕方の暗がりまで、高雄市の善男善女を呑み込む。台風が来ようが変わらない。複数個所ある壽山の登山口にはハイカーが群がるが、一旦山に入り込んでしまうと静かな山歩きが約束される。不可思議としか言いようがない。全山サンゴ礁が隆起し形成された小山岳である壽山の魅力は多方面から語ることが可能である。例えば、壽山の真の主人たる台湾猿の高度な学習能力と生態を論じるだけで、十分一冊の本になりそうだが、今回は筆者の専門分野である古道と登山を切り口にすることにする。

 壽山は現在の行政区画上は高雄市鼓山区に属し、東側は市街地が迫り、西側は台湾海峡に臨む。南側は高雄港港口に落ち込み対岸の大砂州、旗津と対峙、北側は左営海軍基地となりこの方向からの一般民の壽山へのアクセスは遮断されている。同時に、壽山の最高点を含む広い地域が国軍軍事管制区になっている。国防部は段階的に管制区を縮小して来たが、それでも尚600強ヘクタール、全山の約三分の二が管制区である(註1)。このことは、壽山の自然生態系や文化遺産の保護・維持に絶大な好影響を及ぼしているという側面がある。とは言いながら、管制区と非管制区との境界が曖昧になっている部分も少なからずある。台湾海峡に面する小漁港、同区桃源里柴山部落は管制区内にあるという具合だ。

<壽山国家自然公園>
 壽山は古来複数の山名が冠せられてきた。曰く、打狗山、打鼓山、鼓山、高雄山、萬壽山等であるが、高雄人は柴山と言い慣わして来たし、筆者の手元の市販地図帳でも「柴山自然公園」と記されている。現在、柴山も含め複数あった呼称が「壽山」に統一されつつあるのは、2019年11月、柴山が台湾として初めての「国家自然公園」への昇格が認定されたからだ。従来の国家公園法を改訂、国家公園(国立公園)に準ずる公園として「壽山国家自然公園」の計画が発表されたのは、2009年10月、オープンしたのは2011年12月である。尚、二番目の候補地は同じ高雄市に属する「美濃」である。

 壽山は日本時代の呼称である。裕仁親王が、大正12年(1923年)4月、台湾に行啓なされた際に壽山と改名された。裕仁親王の高雄巡啓は4月21日と22日の二日間、その内22日午後、当時打狗山と呼ばれていた壽山の南部にお登りになられた。ご離台(4月27日)後の最初のご誕生日4月29日に、台湾総督・田健治郎がこのご登山を記念し壽山と奉名したのが実際の改名の経緯である。その後、昭和3年(1928年)、「公園の父」本多静六が企画した「壽山記念公園」が開園する。更に、台湾日日新報が公募した「台湾八景」に選定された。戦後は壽山と柴山は明確な線引きの無いまま混用されて来たように思えるが、ここに来て壽山の名が正式に復活したと言えそうだ。

<「登山街60巷歴史場域」>(註2)
 過去足掛け二十年に渡り壽山に通いながら、網の目の如く張り巡らされた登山道のどれかが実は古道であるに違いないとは想像していたが、確証が得られなかった。その確証の機会が訪れたのは、前述の柴山自然公園の壽山国家自然公園への昇格に依っている。

 壽山南端山麓下の街中に「登山街」という小さな通りがある。台湾の住所は道路名で構成され、伝統的には大きな方から「路」、「街」、「巷」の順番、日本の「丁」、「番」、「号」に相当するだろう。総延長は650メートル程、婦人会館、振武場(今は武徳殿の呼称、武道館の意)、第一小学校(現在は鼓山国民小学校)等日本時代、高雄港築港と同時に造成された湊町(みなと・ちょう)の面影が色濃く残る。現在の行政区画名は高雄市鼓山区壽山里である。この通りの東端は哨船街に繋がり、そのまま南に辿れば、高雄市観光のゴールデンコース、旗津へのフェリー埠頭、打狗英国領事館、雄鎮北門を経て、西子湾、中山大学キャンパスに至る。湊町を含む現在の鼓山区南部、その東隣りの新濱町(しんはま・ちょう)を含む現在の塩埕区が、当時高雄市役所と高雄駅を擁し日本時代の高雄市発展の魁(さきがけ)となった地域である。

 登山街の「登山」が何を意味するのか、初めてその道路名を目にした時から気に掛かっていた。或る日、緑色の登山街の道路標識に茶色の観光地道路標識が併設されているのに気付いた―「登山街60巷歴史場域」。「歴史場域」とは歴史広場とでも訳せようか。何があるのか全く想像が付かぬまま現場に赴き唖然とした。先ず目に飛び込んで来たのは日本家屋を模したトイレだったのだが、その歴史広場のテーマを中文・英文・日文で説明してある総合案内板の解説に唖然としたのだ。何と古道そのものの解説になっていたからだ。国立中山大学の企画・管理下に置かれ2017年10月に一般公開された歴史場域とは、壽山古道の保存と啓蒙活動の場だということが判った。壽山国家自然公園の発足に併せた目玉企画の一つであるのは明らかだ。この総合案内板『登山街60巷歴史場域』の日本語解説をそのまま紹介する。段落付けは筆者が調整した:

「1864年、打狗(ターカオ、高雄の旧称)港が正式に開港。寿山の中腹にある泉から湧き出た水が登山街60巷を通って港の岸辺に流れ込み、商船が真水を得るための場所となったところから、この辺りは打水湾と名付けられました。

 1886年、台湾の初代巡撫(最高地方統治官)劉銘伝が打狗港の防衛力を高めるため、寿山に大坪頂砲台を建設。1889年にはイギリスからアームストロング砲三門を購入し、登山街60巷の石段の古道から人力で引き上げて山上に設置しました。

 1923年、当時の皇太子・裕仁親王もこの古道を通って港の絶景を眺めました。1925年、寿山記念公園の建設が開始され、登山街60巷の古道が港一帯を見降ろす「展望道」となりました。

 築港の時期、「哈瑪星(濱線)」地区では古道の東側2か所に平地が整備され、高雄築港出張所の官舎が建てられました。戦後、この官舎は、1945年に高雄港務局の官舎と変わりました。

 数年後、中国からの軍人と家族や都市部・農村部の人々が移り住むようになり、山の斜面の空き地に自力でバラック小屋を建て、「山城集落」が形成されました。古道の西側では今でも集落がそのままの形で保存されていますが、東側ではすでに建物の大部分が取り壊され、壁や柱、タイルの一部が残るのみとなっています。

 1998年には中山大学のキャンパスとして提供されています。」

 「台湾の声」読者の方には馴染みのある由来だと思うが、「打狗」は平埔族マカタオ族の集落タアカウ社の台湾語漢音訳であり、「竹林」を意味する。

<壽山古道>
 歴史場域内には上記の総合案内板の他に、場内の遺跡・遺構に対し合計10箇所に案内板が設置されている。既に百三十余年を経た古道は今や住宅街の中の登り一方の狭い路地に替わり果てている。筆者の見立てでは、路地の長さ250メートル、高低差35メートル程度、10分もあれば歩き通せる。その路地を登り始めて直ぐの場所に『壽山清代古道』の案内板が立つ。その解説と添えられた古道地図は筆者にとり十分に衝撃的だった:

「清代の打狗山(寿山)には大坪頂砲台を中心として4つの古道があり、学者の研究によりそれぞれ哨船頭古道、塩埕埔庄古道、内惟越嶺古道、柴山部落越嶺古道と名付けられました。

 哨船頭古道は清代の大坪頂砲台の脇にある打狗山兵営の南門を起点とし、南東方向に山を下って寿山館を通り、南に向かい登山街60巷の古道に至った後、更に登山街と哨船街を通り、雄鎮北門砲台につながっています。この古道は、アームストロング砲を山上に引き上げる際にも使われました。

 清代の古道は元々土の道で、坂道には研磨して成形したサンゴ石が敷かれていましたが、日本統治時代に階段が作られ、その後も複数回に渡って修繕がなされました。古道の両側にあるサンゴ石の擁壁は、戦後に住民が建設したものです。現在でも、古道の上方のモモタマナの木がある場所では、サンゴ石で作った当初の道の基礎部分が見られます。」

 解説冒頭で四本の古道が列記されているが、全て目的地が大坪頂砲台であることから、本来、軍事道路であり、「壽山清代軍事古道」の様な呼称が古道の成立ちと性格を現している。又、その後の解説は、「登山街60巷歴史場域」とは、「哨船頭古道」の一部を切取り整備・構成されたものであることを明確にしている。

 大坪頂砲台は、壽山南部の標高150メートル前後の台地に敷設され、その遺構は現在でも残存しているらしいが、軍管制区内にあるので確認のしようが無い。日本時代、その一帯はゴルフ場が開設され当時の地図には「ゴルフリンクス」の標記がある。又、ゴルフ場南端にあったクラブハウスは今でも保存され、濃紺の屋根をいただく白亜の遺構は遠くからでも良く見えている。高雄人は「小白宮」(ミニ・ホワイトハウス)と呼んでいる。戦後、張学良が暫く軟禁されていた場所でもあるが、これも軍管制域内だ。

<壽山館と裕仁親王登山道>
 歴史場域の最高点には『清代の古道と日本統治時代の展望道』の案内板がある:

「登山街60巷は、寿山の大坪頂砲台と哨船頭地区の雄鎮北門を結ぶ清代の古道です。

 1905年、台湾総督府は皇族が打狗に滞在する際の宿泊所として、寿山の中腹に迎賓館を建設しました。1912年、濱線地区の埋め立てが完了し、大勢の日本人が移り住んで来ました。1918年の打狗市区計画変更図では、登山街60巷の迎賓館に通じる清代の古道が「展望道」と表記され、日本人が休日に登山する際の展望道となりました。当時の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)が1923年に打狗を訪問した後、宿泊所となった迎賓館は「寿山館」、打狗山は「寿山」と改称されました。

 この平地からの眺めは上方の寿山館と同じで、裕仁親王が1923年に見た高雄港を望むことができます。」

 前出解説文中にある、裕仁親王が高雄巡啓の折り、二日間ご宿泊になった壽山館は、中山大学職員宿舎B棟に襲われている。歴史場域最高点を通過する中山大学敷地南側に設営された生態歩道とそれに沿う構内車道を横切った場所に立つ。壽山館とそれを取り巻いていた庭はすっかり撤去され、レンガ色の現代建築物に置き替わった。裕仁親王は高雄巡啓二日目の4月22日午後、高雄州知事富島元治の先導で、打狗山登山を楽しまれた。

 台湾ネットを渉猟していたら、高雄市立歴史博物館に登録されている廖徳宗氏の研究論文『清代打狗大坪頂砲台及軍事古道考證』(註3)に往き当たった。その研究論文の中で、廖氏は当日の裕仁親王一行の登山コースを推察している。日本側の記録だと復路のコース情報が欠落しているからだ。壽山館出発が午後2時、先ず壽山館後方の北東に向かう急な登山道を登り始められ、壽山館右上方にある東屋(あずまや・台湾では涼亭)を経て第一展望所(高雄港方面展望台)でご休憩、次に北西方向に進路を取り、大坪頂砲台跡まで足を伸ばされ、更に北側の第二展望所(台湾海峡方面展望台)でご休憩なされた。登山口から第二展望台までの歩行距離が2,400メートル、その後往路を戻りご帰還なさったのか、砲台跡から哨船頭古道を辿るコースを取られたかは不明、廖氏は後者のコース、詰り反時計廻りに一巡なされたと推定、その場合の総歩行距離は3,700メートル、ご帰還時間は4時半と見積もっている。筆者がグーグル・アースで確認したところ、壽山館と登山コース最高点の高低差は100メートル程ある。第一展望所にはこの4月22日から二年後に「皇太子殿下御登山記念碑」が建立され、皇太子殿下行啓記念日の4月16日(裕仁親王台湾到着日)には高雄市民が壽山館前に集合、この記念碑まで登山するのが年中行事となったそうだ(註4)。戦後この記念碑は撤去されたが、跡地はグーグル・マップ/アースで確認可能だ。又、第二展望所はその後「宮の台」と呼ばれた。

 以上のご足跡は今現在全て軍管制区内なのだが、廖氏は論文の中に二枚の写真を掲載している。大学職員宿舎裏の山域で撮影された登山道と東屋遺構である。四角錐の屋根を頂く東屋は行啓時に撮影された壽山館の写真に明確に写り込んでいる。筆者も早速踏査してみることにした。職員宿舎は自転車でも筆者の自宅から半時間ぐらいの距離だ。あわよくば、登山記念碑跡地まで辿れるかもしれないという期待に胸が膨らんだ。

 職員宿舎の裏側の山域に入り込めそうな場所の当たりは予め付いていた。そこは小さな空き地になっており、国軍の警告板が立ち、その後ろに大学敷地と軍管制区を隔てるコンクリートの壁と鉄柵が待ち構えていた。筆者が思い描いていたのは、壽山山中に無尽に張り巡らされた登山道か、それらに準じる踏み跡だったが、附近にそういう類のものは見付からず。又、秘密の抜け口も探し出せそうに無い。若い時ならこの鉄柵を越えてずんずん入り込んで行ったものだが、六十の坂を越したことに加え、以前寿山の別な場所で誤って管制区域に入り込み散々油を搾られた記憶が蘇って来たこともあり、直ぐに諦めた。恨めし気に鉄柵の向こう側を眺めていたら、サンゴ石のブロックを積み上げた低い石塁があり、それに沿い幅広のコンクリートで保護されている階段が見えた。直ぐに当時の東屋に至る登山道跡だと確信、多少興奮した。

 何等かの方法で大学と軍管制区を隔てるコンクリート塀と鉄柵を乗り越す術は確保されているはずと踏み、後日現場に戻るといとも簡単なことだった。警告板後ろの鉄柵は折り取られ両者間の移動の自由が確保されていたのだ。前回は何故かこのことに全然気が付かなかった。お誂え向きに踏み台となる座椅子も置かれているので、軽々と越えられた。廖氏に依ると、登山道入口から東屋までの距離は80メートル、レンガ等を芯にしコンクリートで保護された階段は、想像以上に良い状態で残っていたので、確実に東屋まで辿り着けるとドキドキしたものだ。東屋と登山記念碑方向への三叉路に至るとコンクリート保護階段は終り、切り出したサンゴ石のブロックで設えた階段に切り替わっていた。そこから先は藪が被さっており前進する場合鉈等の道具が必要に思えた。東屋遺構の周りは、然程古くない切り口を呈した樹木があるように、最近入山した有志の方が伐採作業を施している。遺構は土台だけだが四隅とも残存状態は極めて良好だった。

 三回目は実際に鉈(なた)を持参し、東屋から更にどの程度進めるか確認した。登山道は山腹を真っ直ぐに横切りながら高度を上げていくのかと想像していたが実際は九十九折り(つづらおり)状に開削されていた。東屋から目測で100メートル程度の場所はちょっとした踊り場になっており、藪が低くなり高雄港が見降ろせた。そこには古びたプラスチック製の椅子が転がっていた。その先の登山道は鉈一丁では心細い気がしたのに加え、前述のクラブハウスが指呼の間〔しこのかん〕に見え始めたので退散することにした。筆者の見立てでは登山道口から登山記念碑までは約400メートル、その半ばまでは来たと踏んだが、廖氏に依ると700メートルだ。いずれにしても、サンゴ石のブロックを積み階段を組んだ登山道は百年を越えても尚完全で美しいのには感動した(註5)。

<エピローグ>
 冒頭で壽山の最高点は標高350メートル弱と述べたように、裕仁親王は壽山の山頂まで足を運ばれたわけではない。それでも、その後壽山山頂は「壽の峰」と呼ばれることになる。陸地測量部は大正10年(1921年)には台湾全土の一等三角測量を完了させており、壽山にも一等三角点を埋定した。打狗から高雄への改名が大正9年(1920年)なので、裕仁親王ご登山時には既に打狗山から高雄山へ改名されていたかもしれない。終戦の年出版の地形図では「壽(高雄)山」の標記法になっている。筆者の手元の市販地図帳には「高雄山・標高355メートル・一等三角点」の標記がある。筆者自身過去壽山に一等三角点が存在すると聞いたことは無かったので、最近までその行方を追い掛けていた。そもそも壽山の山頂(最高点)は何処なのか判然としないのが現状だ。実は、「壽の峰」こと高雄山山頂は三角点共々消失していた。1986年9月、稀有な長寿台風として台湾を襲った台風14号(「ウェイン台風」)の一撃で山頂そのものが崩落したのだ。山頂東側が台湾セメント(略称「台泥」、前身は小野田セメント)の石灰岩(サンゴ石)採掘場だった為だ。今現在壽山は行政院体育委員会選定の台湾小百岳の一座だ。幻の高雄山山頂の南側にある峰、通称「南壽山」(標高337メートル)を壽山代理山とし、その山頂が軍管制区内にあることから、山頂直下の「好漢坡」東屋を代理山頂と見做して小百岳ハンターの登頂証明に供している。但し、標高は355メートルとしている。その南壽山山頂に立ち南側を望むと、裕仁親王が嘗て歩かれた登山記念碑から大坪頂砲台跡方面の台地一帯が足下である。(終り)

(註1)(ニュース記事)風傳媒(The Storm
Media)、2020/01/29号「不只有動物園!軍管範圍逾600公頃 一掲壽山神秘面紗下的戰略價値」
https://www.storm.mg/article/2207274

(註2)「登山街60巷歴史場域」國立中山大學公式サイト
https://dengshan60lane.nsysu.edu.tw/app/index.php

(註3)『高雄文献』「清代打狗大坪頂砲台及軍事古道考證」(文史研究者、廖德宗)高雄市立歴史博物館
http://www.khm.org.tw/storage/files/1317/original/14945507685f6420ee791b4.pdf

(註4)『高雄文献』「1930年代中期高雄州名勝古蹟介紹」(原著:前園滿義、翻譯:國立成功大學歴史學系文學博士、林瑛琪)高雄市立歴史博物館
http://www.khm.org.tw/storage/files/428/original/80034822165f49b8f3a50a9.pdf

(註5)(ブログ記事)壽山古道-8:「哨船頭古道」-6:「壽山館」-2
http://taiwan-kodou.com/article/479222958.html
 


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