【台湾人は忘れない】命を落としてまで台湾に尽くした5人の日本人

【台湾人は忘れない】命を落としてまで台湾に尽くした5人の日本人

『Japan on the Globe−国際派日本人養成講座』より転載

伊勢雅臣

2009年3月22日の日本経済新聞に「台湾『御用列車』復元へ」という記事が載った。台湾の鉄道事業を担う台湾鉄路管理局が、観光振興の目玉として「御用列車」の復元に乗り出したという。

第一弾は40年前に作られた蒋介石総統用の御用列車だが、その後、日本統治時代の1904(明治37)年に製造された台湾総督専用の客車と1912(大正元)年に完成した皇室専用客車との二つも復元候補に挙がったという。後者は大正12(1923)年、皇太子であった昭和天皇が12日間台湾を回られた時に使われたお召し列車であった。

「日本帝国主義の植民地支配」を糾弾する韓国・北朝鮮から見れば、信じられない発想であろう。

台湾では古蹟や建築を訪ね歩くのが一種のブームになっている。台北市内の書店では、歴史や建築に関する書籍が数多く刊行されていて驚かされるし、大型書店なら、台湾詩と建築ガイドの専門コーナーをそれぞれ別に設けているところもある。
(『台湾に生きている「日本」』片倉佳史 著/祥伝社)
台湾に住み、歴史や風土も含めたガイドブックを何冊も著している片倉佳史氏はこう語る。観光資源として御用列車を復元しようというのも、この歴史ブームの一環だろう。

その片倉氏の『台湾に生きている「日本」』は、台湾に残る日本統治時代の遺跡を紹介しつつ、それを通じて台湾人と日本人が共に生きた日々を思い起こさせてくれる好著である。今回はその中からいくつかのエピソードを紹介したい。

「阿里山開発の父」

観光用の鉄道としては、台湾中南部、国家風景区(国定公園)に指定されている阿里山の森林鉄道が有名である。軌道幅は762ミリと狭く、小さな鉄道であるが、標高差は2,244メートルに及び、連続スイッチバックやスパイラルもあり、美しい車窓を堪能できる。アンデス高原鉄道やインドのダージリン鉄道とともに、世界三大山岳鉄道の一つに数えられている。

現在は蒸気機関車の復活運転なども実施され、観光用に使われているが、もともとは日本統治時代に、阿里山で伐採される豊富な木材の搬出用に作られたものだった。

阿里山は15の山々の総称で、その一つが東アジアの最高峰(標高3,952メートル)玉山(ぎょくさん)である。戦前は新高山と呼ばれていた。明治天皇により「新しい日本最高峰」の意味で名づけられたものである。

現在は台湾を代表するマウンテン・リゾートとなっており、遊歩道なども整備されているが、その途中、鬱蒼と生い茂った樹林の中に一つの石碑が建っている。正面には「琴山河合博士旌功碑」と刻まれている。河合博士とは「阿里山開発の父」と呼ばれた河合
「金市」太郎博士で、琴山とは博士の号である。「旌功」とは功績を顕彰すること。

河合博士は日本における近代森林学の先覚者として知られている。名古屋の出身で、明治23(1890)年に東京帝国大学農科大学を卒業、その後、ドイツとオーストリアで欧米の林業学を学んだ。明治35(1902)年に台湾総督府民政長官・後藤新平に請われ、台湾での林業開発を指導することとなった
12年かけて完成した森林鉄道

当時、台湾では南北を結ぶ縦貫鉄道の建設が進められていた。その資材調達先として注目されたのが、阿里山であった。しかし、河川は流れが急で水量が不安定なため、水運を用いることはできない。そこで台湾総督府は森林鉄道の建設を決め、明治33(1900)年から地勢調査を始めていた。

河合博士は鉄道ルートの選定からこのプロジェクトに携わった。地形的な制約が大きいため、軌道幅762ミリという軽便鉄道の規格で設計された。自然災害もあり、何度となく挫折しながらも工事は進められていった。7年後の明治40(1907)年西南部の嘉南平原北端の嘉義から、標高2,000メートルの二萬平までの66キロが開通。12年後の大正2(1912)年には阿里山まで全通し、本格的な森林資源の搬出が始まった。

伐採は生態環境を維持しながら計画的に行い、同時に植林事業も進めて、森林資源の保全を図った。河合博士はこれらの計画を直接指導した。この実績は林業関係者の間では今も高い評価を受けている。台湾南部の灌漑事業を手がけて「百万人の農民を豊かにした」と李登輝元総統に言わしめた八田輿一氏に並ぶとも言われている。

河合博士は昭和6(1931)年に東京の自宅で永眠した。台湾で罹ったマラリアが原因だったと伝えられている。その後、門下生たちによって、記念碑が建立されることになり、阿里山神社の神苑がその場所に選ばれた。ここには昭和10(1935)年に建立された樹霊塔も残っている。切り出された樹木の霊を慰めるためであった。

日本最長の大橋梁

西南部の高雄県とその東の屏東(へいとう)県はかつて下淡水渓(しもたんすいけい)と呼ばれた大河川を県境としている。流域面積では台湾最大の河川である。この河川に大正2(1913)年、3年がかりで全長1,526メートルもの大橋梁がかけられた。

完成時には、天竜川鉄橋や朝鮮の鴨緑江鉄橋よりも長く、日本最長を誇っていた。この橋はトラスという複数の三角形を組み合わせた構造を用いている。24連ものトラスが延々と続く光景は、世界の鉄道技術者を感嘆させるに十分なものだったという。

この橋梁が果たした役割は大きかった。これまで下淡水渓によって隔絶されていた屏東地方は、新興産業都市・高雄と直接結ばれ、農産物を鉄道で輸送できるようになった。また高雄の港湾施設にインドネシアからボーキサイトが輸入され、アルミニウム工業が発達した。屏東産のパイナップルは、アルミ缶に詰められ、大半が日本に出荷されるようになった。

高雄から鉄橋を渡る手前に位置する九曲堂駅の駅舎近くに古めかしい、見上げるような大きさの石碑が建っている。鉄橋の架設に努めた飯田豊二という技師の碑である。

飯田技師は静岡県生まれで、明治30(1897)年に28歳の若さで台湾に渡った。明治43(1910)年には鉄道部技師となり、翌年から台湾総督府鉄道部打狗(高雄)出張所の技師として、下淡水渓橋梁の架橋工事に携わった。

しかし、過労がたたって病に倒れ、自らが手がけた鉄橋の完成を見ることなく、大正2(1913)年6月10日、台湾総督府台南医院で世を去った。享年40であった。その後、台湾総督府は飯田技師の功績を讃え、この碑を建立したという。

現在では石碑を中心に公園が整備され、その由来が中国語と英語、日本語で案内板に書かれている。郷土史に興味を持つ人びとが頻繁に訪れ、鉄橋と共に歴史遺産の扱いを受けている。

「日本統治時代」の思い出を懐かしく語る人々

現在も稼働する水力発電所と3人の殉職碑

台湾の南部は急峻な山々が聳え、多くの急流があることから、水力発電所が多数作られた。台湾の水力発言所は大半が日本統治時代に建設されたもので、今も11カ所が現役であるという。

高雄県の美濃(みのう)という小都市には、市街地から約6キロ離れた所に、竹子門(ツーツーメン)発電廠と呼ばれる水力発電所がある。明治42(1909)年、台湾では二番目、南部では最初に設けられた発電所である。

発電所の建物は、日本統治時代からほとんど変わっていないという。内部の設備も、戦前からのものだ。発電機はドイツから輸入されたもので、現在も動いている。

発電所の構内には3人の殉職した日本人職員の石碑が残されている。傍らの解説板によると、上利良造は明治43(1910)年、触電により殉職。青柳義雄は昭和2(1927)年に病死。山中三雄は水路に誤って転落、殉職し、昭和12(1937)年に碑が建てられた。

これらの石碑はいずれも工員たちによって建てられ、守られてきた。保存状態は良好で、大切にされている様が窺い知れる。

片倉氏に案内役を申し出てくれた古老は、「職務に対する真摯な至誠は何人たりとも否定できません」と静かに語った。そして「技術者というのは、そういった精神を何よりも大切にする人種です」と続けた。この老人もまた、台湾の山林を駆け巡った水道技師である。

なお、台湾の急峻な河川は、渇水時には水量が不足して、流域は水不足になる。以前は、この一帯も水不足に悩まされていたが、発電所が出来てからは、その水を灌漑用水として安定供給している。現在もここからの灌漑用水が利用されており、美濃は台湾でも指折りの農業地帯となっている。

「この電話は今まで一度も壊れたことがない」

台湾東北部を走る平渓線は、全線にわたって渓谷が続き、車窓の美しさで知られている。平日こそ閑散としているが、週末は行楽客で結構な賑わいとなる。

この路線は、一帯の炭鉱を経営していた台陽鉱業株式会社によって大正10(1921)年に敷設され、沿線で採掘される石炭の運搬に使われていた。昭和4(1929)年に台湾総督府に買収され、官営となった。

終着駅である菁桐(せいとう)駅は、かつてはいくつかの炭鉱があり、多くの坑夫が集まって、賑わっていたという。片倉氏は1997年にここを訪れた。

駅舎は昔ながらの木造和風建築だが、大きく庇(ひさし)が張り出して日陰を作り、また待合室には扉をなくして風通しを良くしていた。片倉氏が来訪記念に乗車券を買い求めると、助役らしい初老の駅員は、日本人が珍しかったのか、駅長室に招き入れてくれた。

案内された駅長室は、まさに日本の地方駅の雰囲気であった。黒光りする大きな金庫には「大正13年製造」と刻まれたプレートが嵌め込まれている。

埃をかぶった昔ながらの鉄道電話もあった、これも日本統治時代からのものだという。別の駅員が古電話を優しくさすりながら、小さな笑顔を見せた。そして、「この電話は今まで一度も壊れたことがない」と、あたかも自分のものであるかのように胸を張った。

「お医者さんはハルヤマ先生という方でした」

10年後に片倉氏は菁桐駅を再訪した。列車が駅の構内に差し掛かる直前に、線路沿いに朽ちかけた木造家屋を見つけた。片倉氏は線路伝いに歩いて、そこに向かってみることにした。近づいてみると、それはまさしく廃墟だった。柱は折れ、天井は抜け落ちている。

通りがかった老婆に声をかけてみると、ここは日本統治時代の診療所だったという。

老婆は当初、突然の日本語に緊張した表情を見せたが、しばらくすると、「お医者さんはハルヤマ先生という方でした」と教えてくれた。「よく覚えていますね」という私の言葉に、老婆は当然といった面持ちで、「お世話になりましたから、忘れません」と答えた。このやりとりを境に、私たちの会話はすべて日本語になった。

老婆の日本語は、当初は若干のたどたどしさを含んでいたが、話しているうちに流暢になってきた。小学校を卒業する前に終戦を迎えたというので、日本語による教育はわずか数年間ということになる。

しかし、両親や兄弟が日本語を常用していたため、家庭内で戦後も日本語との接点が保たれた。老婆は今もNHK衛星放送で大相撲やのど自慢を観るのが何よりもの楽しみだと笑っていたが、突然真顔になって、「一度でいいからのど自慢を台湾でやってくれないものかね」と迫られた。
(同上)
ハルヤマ先生は終戦で日本に引き揚げ、再び、この地を訪れることはなかった。そしてそれから60年以上の歳月が過ぎ、小学生だった少女は、齢80に手が届く老婆になった。

彼女にとっての「日本」は、多くの台湾の老人たちと同様、終戦を機に封印されてしまった。それでも、若き日々の思い出は決して色褪せることがない。老婆はしばらくして「もうきっと亡くなっているでしょうね」とつぶやいた。
(同上)
発車の時刻が迫り、片倉氏が慌てて列車に乗り込むと、警笛がなって、ディーゼルカーは菁桐駅を離れた。窓の外を見ると、孫を抱いた老婆が手を振っていた。

現在もこの木造駅舎は健在だが、最近の行楽ブームを受けて、ここにも多くの行楽客が訪れるようになっている。

「植民地支配」という空虚な概念では片付けられない、日台の深い絆

台湾人と日本人とがともに過ごした日々

台湾での郷土史ブームは、台湾人としてのアイデンティティを求める心とつながっているように思える。「自分たちは、大陸の中国人とは違う。台湾に生まれ、育ってきた台湾人だ」という意識が、「自分探し」の旅としての郷土史ブームの原動力になっているのではないか。

そして、台湾各地に残る歴史遺産を訪ねてみれば、そこかしこに見つかるのが、1895(明治28)年から大東亜戦争後の1945(昭和20)年までの半世紀の日本統治時代のものである。

台湾の若い世代にとって、この時代の遺産を辿ることは、自分たちの祖父母の生きた姿を思い出すことなのだろう。

そして、そこには我々日本人の祖父母の足跡も残っている。かつて台湾人と日本人とが、この地でともに過ごした日々があった。ともに力を合わせて、鉄道を敷き、橋梁を建設し、水力発電所を設け、灌漑水路を堀り、診療所で人々の健康を守った。

「日本帝国主義による植民地支配」などという空虚な概念では掬いきれない、喜びや悲しみに満ちたそれぞれの人生があったのである。

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