【許國雄】台湾人の大和魂

【許國雄 】台湾人の大和魂

メルマガ『Japan on the Globe−国際派日本人養成講座』より転載

             伊勢雅臣

1947年3月6日、台湾南部の高雄。高雄市立病院の主任医師、と言ってもまだ25歳の許國雄は、市参議員(市会議員)である父に頼まれ、救護隊として市役所で待機していた。

日本の敗戦後、大陸から渡ってきて台湾を支配した中国国民党の役人たちは台湾の物資を横領して上海で売り払ったため、猛烈なインフレが全土を襲った。兵隊たちによる台湾人への略奪・殺人・強姦も日常茶飯事だった。日本統治下で安定した法治社会を経験していた台湾人たちの不満がたまっていた。

その不満に火をつけたのが、2月27日、台北で煙草を売っていた老婆が、専売局の役人たちに銃で激しく殴打された事件だった。翌28日、専売局に抗議に押し寄せた群衆にいきなり憲兵隊が機関銃で発砲し、多くの犠牲者が出た。これを機に台湾全土で台湾人による暴動が始まった。228事件である。

高雄市では市長らが平和的に事をおさめようと、高雄要塞司令部に交渉に行っていたが、それとは行き違いに要塞司令官は兵を市役所に派遣して、機関銃で攻撃を加えさせた。銃弾は市役所内に容赦なく降り注ぎ、その一つが許國雄をかばっていた父の頭を貫いた。

「やられた。國雄(くにお)、後を頼む」と父親は日本語で言うと倒れた。國雄はとっさに父とともに倒れ、死んだふりをした。

弟二人も捕まった

機関銃掃射をした後、兵隊たちは転がっている死体を一人づつ銃剣で突き刺し、生き残りがいないか、確認を始めた。國雄を見つけた兵が「一人、生きているぞ」と北京語で言って、銃口を頭に突きつけた。國雄は震える手で、左腕につけている赤十字の腕章を指した。それが國雄を救った。

当時、市役所にいた三十数名はすべて殺され、赤十字の腕章をつけた國雄ともう一人の医師だけが命は許されて牢に入れられた。3日後、市立病院の院長が要塞司令部側とかけあって二人を救い出した。国民党の幹部も市立病院の世話になったいたので、そのコネが効いたのだった。

ようやく家に帰ると、家では父親の葬儀の真っ最中だった。そこに今度は台北から高雄へ帰ろうとしていた弟二人が、国民党に捕まって、処刑されるという噂が飛び込んできた。列車の他の乗客はすぐ殺されたが、高雄出身の二人は見せしめのために故郷に連れてきて処刑しようというのである。國雄はたまたま要塞司令官の母の主治医をしていたので、その老婦人に必死に頼みこんで、なんとか弟たちを助けてもらった。

「九州男児」

許國雄は大正11(1922)年、台湾海峡中の澎湖諸島に生まれた。父は教員で、昭和元(1925)年に高雄市に転勤したので、國雄はそこで堀江尋常小学校に入った。ここでは日本人子弟と日本語の得意な台湾人子弟が机を並べて学んでいた。國雄はそこからさらに高雄中学に進学した。

中学卒業後、國雄は九州歯科医学専門学校(現在は九州歯科大学)で歯学を、さらに九州高等医学専門学校(現在の久留米大学医学部)で医学を学んだ。小倉市と久留米市で学生生活を送ったので、國雄は「九州男児」だと自称している。

在学中に大東亜戦争が勃発し、國雄は「欧米の支配からアジアを解放する時が来た」と喜んだのもつかの間、昭和20年に敗戦。日本は台湾を放棄し、中華民国が接収することとなった。

國雄は一夜にして、敗残の大日本帝国臣民から戦勝国・中華民国の国民となったのだが、昨日まで一緒に空襲の際には防空壕に逃げ込んだ日本の友人たちのことを思うと、そんな気持ちの切り替えはできなかった。

連合国軍の手配した旧日本軍の駆逐艦に乗って、台湾に帰った。規律正しい日本軍に代わってやってきた中華民国軍はみすぼらしく、裸足で天秤棒に鍋釜を下げている兵も多かった。ここから台湾人の悲劇が始まったのである。
国民党に入党

1961年、39歳の時に、蒋介石の息子・蒋経国から228事件の話を聞きたい、という申し出があった。経国はこの時、台湾中を廻って人々の意見を聞いていたのである。当時はまだ戒厳令下で、罪もない台湾人が投獄されたり、銃殺されたりしていた時代である。國雄は台湾人の本当の気持ちを伝えることができれば殺されても本望だと、228事件の体験をすべて話し、最後につばを飲み込んで、ふりしぼるように言葉を発した。「今の政治は、改革されねばなりません。」

次の瞬間、蒋経国は意外な言葉を口にした。「あなたの話はよく分かりました。あなたの力を借りたい。あなたも国民党に入って私と一緒に党を改革しようじゃありませんか。」

國雄はこのチャンスを逃がさなかった。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」、敵の本丸たる国民党に入党して、内部から改革していこうと志したのである。後に蒋経国の後をついで国民党総統となる李登輝を始め、この時に多くの台湾人が改革の志を抱いて国民党に入党した。

大和魂の教育

國雄は高雄医学院の医学部や歯学部で教鞭をとるうちに、教育への情熱がかき立てられ、自分で学校をやってみたいと思うようになった。1963年、看護婦・助産婦を育成する育英高級護理助産職業学校を設立。この分野では台湾で最初の私立校だった。現在は育英医護管理専門学校という短大となり、生徒数2,000名の規模となっている。66年にはさらに東方工芸専科学校を創設。ここは現在、学生数8,000人を擁する東方技術学院という大学となっている。

國雄の創設した学校では、毎日朝礼を行い、国旗「青天白日旗」を掲揚する。台湾への忠誠心を養いながら、同時に大和魂の教育をめざした。台湾で最初の日本語学科も新設した。

設立した当初は高級官僚や政治家のどら息子も少なくなかった。悪いことをした生徒には、親に言いつけるのではなく、容赦なく殴る。「君は本来よい学生だけど、今のはよくない」と言って、3回殴る。1回目は国に代わって殴り、2回目は父親に代わって殴り、3回目は母親に代わって殴る。不思議なことに、殴られた学生ほど、卒業してから立派になり、「昇進しました」「今度社長になりました」と國雄に報告に来る。

校舎の一部には、日本間がしつらえてあり、そこには神棚と共に教育勅語が額に入れて掛けてある。國雄は言う。

戦後の日本には教育勅語がないから、「夫婦相和」さず離婚率が高いのです。「朋友相信ジ」ないから、「いじめ」が絶えないのです。「博愛衆ニ及ボ」さないから、電車で老人に席を譲らないし、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ズ」る精神が失われたから、利己的な人間が増え国全体の名誉が蔑(ないがし)ろにされてしまうのです。

米占領軍がこの教育勅語を軍国主義として批判しましたが、どの文言が軍国主義にあたるのか私には理解できません。
(『台湾と日本がアジアを救う』許國雄・著/明成社)

「瑞竹」の縁起

東方技術学院の正門正面に「瑞竹」と呼ばれる巨大な竹の一群がある。これは日本の皇室に関わるもので、大正12(1922)年に昭和天皇がまだ皇太子の頃、12日間台湾を回られたときに、高雄まで足を伸ばされた。さらに隣の屏東(へいとう)へも行かれる予定であったが、その地に伝染病が蔓延したため、行啓反対の声が強くあがった。しかし殿下は「そこもわが地、わが民がいる」と言われて、自らの意思を示された。

伝え聞いた屏東の民は感激して、嘉義の山から蓬莱竹を9本苅ってきて天幕を作り、家々に日の丸を掲げて盛大にお迎えした。竹は枯れて淡黄褐色に変色し、さらに芽が出ないように逆さまに地面に差してあったのに、不思議な事に行啓の時には、小さな新芽が出ていた。植物学者である殿下はこの新芽に目をとめ、優しく撫でられた。殿下が帰られてから、この新芽からぐんぐん成長を始めたのである。

地元の人は、不思議な事として地面に植え直した所、大きな竹林に成長したので、瑞祥だとして「瑞竹」と呼ぶようになった。しかし國雄は戦後の国民党政府の反日政策からこの瑞竹が苅られてしまう恐れがあると思って、その一部を密かに東方工芸専科学校の正門前に移植したのである。戒厳令下で国民党政府に知られたら、「親日的」としてただでは済まない危険な行為であった。

「大和魂」対「袖の下文化」

1972年7月、國雄は教育会の理事長に任命された。教育会とは、日本で言えば教育委員会と教員組合を合わせたような強力な組織である。その直後、12月には教育会の推薦で、日本の参議院議員にあたる国民大会代表に立候補することになった。冷遇されていた教員の待遇改善などの公約を掲げ、選挙戦に臨んだところ、トップ当選となった。

その後、教育会理事長と国民大会代表とも、14年の長きにわたって務めた。國雄は教育事業、教育改革を自らの使命として取り組んできたが、その間、常に念頭にあったのは、日本時代に培った「大和魂」だった。

ある時、教科書会社が國雄に賄賂を持ってきたことがあった。教育会の理事として、自分の会社の教科書を使って欲しいと頼みに来たのである。日本統治時代の台湾ではこうした賄賂はほとんど無かったが、戦後は大陸の「袖の下文化」が持ち込まれ、台湾中を汚染していた。

「私は日本教育で、それも九州の久留米で勉強した九州男児だ。こんなものを受け取れるか」と言って、國雄は賄賂を突き返した。國雄の世代の台湾人にとって、「日本教育」を受けたというのは、一つの自慢だった。お金はあまり貯まらなかったが、清く正しく生きてこられた理由の一つは、日本統治時代に受けた日本教育のお陰だと、國雄は言っている。
日本との教育交流

國雄が教育会理事長、および国民大会代表に選ばれた1972年、日本は大陸の中華人民共和国と国交を結び、台湾政府と断交した。この時、東京の都立高校の教員だった草開(くさびらき)省三氏は、教育を通じて日台の交流を続けようと志を立て、何ら政治的・資金的後ろ盾もないまま、台湾に渡って関係先と折衝を始めた。そして72年の年末に日本から教師45名が派遣されて、第一回の教育研究会が台北で開催された。

國雄は一回目から参加し、締めくくりの挨拶をしたが、草開氏はそんな高い地位の人は外省人だと思って、親しく言葉を交わさなかった。翌73年、今度は高雄で第2回目の研究会が開催されることとなり、國雄は台湾側の受け入れ責任者として台北空港に迎えに行った。

國雄が草開氏を見つけて握手をし、腰につけていたお守りを指さして「伊勢神宮のお守りでしょう」と言うと、草開は急にこわばった顔をした。外省人が難癖をつけてきた、と思ったのであろう。

國雄はにっこり笑って、自分のポケットからも同じ伊勢神宮のお守りを出した。草開氏は「あー」と満面の笑顔で手を握り返した。二人ともその年の遷宮祭に出ていて、そこで求めたお守りだった。「ご遷宮に行かないようでは、人間として生まれてきた意味がない」と國雄が言うと、草開氏は「同感だ」と応じた。以来、二人は台湾と日本で年一回交互に開かれる研究会に28回も参加して一緒に皆勤賞を貰う事になる。

この研究会から生まれたのが「台湾と日本・交流秘話」である。1992年に台中市で開かれた第19回研究会で前高千穂商科大学教授・名越二荒之助が、台湾に残る日本ゆかりの文化遺産をスライド上映を交えながら紹介。これがきっかけとなって、監修・許國雄、編者・名越・草開で出版にこぎつけた。この本は大きな反響を呼び、日本人相手のガイドや旅行会社の必読本となり、日本語コースを設けているいくつかの大学で副読本として採用された。

また日本語教育の重要性を国会で訴え、これがもとになって現在、約30の商業高校で日本語学科が設立されている。

許國雄の「大和魂」

1988年1月、蒋経国・国民党総統が突然、逝去し、副総統だった李登輝氏が党内選挙に勝って、初の台湾人総統となった。李登輝氏は京都大学出身で、自ら「22歳まで日本人だった」と言う人物である。國雄は同じ元日本人として応援した。

1996年、台湾で最初の総統選挙が行われる事となり、「台湾は中国とは別の独立国家だ」と主張する李登輝氏の再選を阻もうと、中国共産党政府は台湾近海にミサイルを試射して威嚇した。しかし、これは逆効果だった。李登輝氏は約1,000万の有権者のうち、600万票も獲得して圧勝したのである。

今の台湾を支えているのは、日本の教育を受けた人たちです。日本の年配者と同じく若い頃に大東亜戦争を体験し、防空壕を掘ったりして鍛えられた人が今の台湾のリーダーになっています。…

あれほどの中共のミサイル威嚇にも、誰一人として逃げようとはしませんでした。全く落ち着いています。逃げないのみならず、中立の浮動票はみんな李登輝氏の方に流れてしまいました。ミサイルが一発でも命中すれば、多くの台湾人が死にます。恐ろしくないわけがありません。しかし、台湾人は「忍」の心で、徳川家康のように黙って独立の機会を待つ李登輝氏に投票しました。
(同)
「虎穴」に入って国民党を中から改革しようという使命感、国家と両親に代わって生徒を殴る公共心、危険を省みずに「瑞竹」を移植したように信ずるものを守らんとする気概、そしてじっと独立の機会を待つ忍耐…、これら総てを含めて許國雄は「大和魂」と呼んでいる。そしてその大和魂を許國雄は「日本教育」から学んだというのである。

「大和魂」を軍国主義時代のスローガンと決めつけるのは勝手だが、それとともに我々現代日本人はこうした使命感、公共心、気概、忍耐をも捨ててしまったのではないだろうか。

文責:伊勢雅臣