【台湾を救った奇跡のダム】台湾人が尊敬する「もう一人の日本人」〜3

【台湾を救った奇跡のダム】台湾人が尊敬する「もう一人の日本人」〜3

『Japan on the Globe−国際派日本人養成講座』より転載

「日本人が機械を使って固い土を掘った」

11月に乾期が始まると、川が干上がるので、川床を掘り起こし、長さ327メートルの堰を埋設した。さらに地下に堰き止めた伏流水を下流に流すために、全長3,436メートルの地下導水路を作り、そこからさらに灌漑幹線を三方に伸ばし、支線、小支線を通じて、2,483ヘクタールにおよぶ農場地、周辺農地に水が行き渡るようにした。

また荒れ地を畑にする開墾作業も困難を極めた。この一帯の土は大小無数の石ころが砂状の土とくっついて、非常に固いので、とうてい人力や牛の力では開墾できない。

まず野焼きをして灌木やツルを焼き払い、地表に出ている岩や石を人海戦術で取り除く。巨大な石はダイナマイトで粉砕した。

次いで大馬力のエンジンで動く深耕用カッターで2メートル以上も掘り起こしては、そのたびに手作業で石を取り除く。石を掘り出すのは男性の仕事で、それを女性達が大きなザルに入れ、頭の上にのせて捨てに行く。

工事、開墾に関わった延べ人数は、14万人以上にもなった。特に原住民の若者たちは、山から下りてきて、5日働いては、2日山に戻る、というスケジュールで働いた。頭目たちとは綿密に話し合っていたので、トラブルは皆無だった。

彼らは、信平らが持ち込んだトラクターや、カッター、耕耘機が動く様を食い入るように見つめた。「日本人が機械を使って固い土を掘ったり岩を壊したりしたでしょ、何もかもが珍しかったんですよ」と、日本統治時代を知る語り部チャーパーライ・サングさんは語る。

原住民の生活の向上

2年におよび工事が終わる頃になると、原住民の生活は大きく変わった。灌漑水が行き渡るようになって、用水路に沿った農地に移動して耕作をする人々が現れ、また作物も、水が少なくとも育つ粟、芋、ピーナツに代わって、イネを植えるようになった。

また賃金が貨幣で支払われたことと、総督府が移動交易所を設けたことによって、伝統的な物々交換が廃れて、貨幣経済が広まった。狩猟で獲物が捕れなくても、豚肉や野菜を購入できるし、釘、針、農具、ナイフ、布などが人気の商品となった。

郵便貯金に励む人も現れて、近代的な経済観念が原住民の間で広まっていった。

興味深いのは、一円銀貨に人気が集まったことだ。ピカピカ光ってきれいなので、祭礼用の冠にクマタカの羽根やイノシシの牙、ユキヒョウの毛皮などと共に、「大日本帝国明治41年」などと刻印された一円銀貨を飾り付けた。

大正12(1923)年5月、起工式から約2年後、付属の堤防や排水工事などすべてが完了した。地下ダムは「二峰シュウ」、新農場は「萬隆農場」と名付けられた。二峰シュウによって乾期でも作物ができるようになったので、収穫量は急増し、サトウキビでは単位面積当たりの収穫高は4〜8倍となった。

二峰シュウと萬隆農場を開設すると、信平は休む間もなく、新たな地下ダムと農場の開設にとりかかった。こんども放置された荒野を買い取り、林辺渓の支流にあたる力力渓(りきりきけい)に堰を埋め、伏流水を取り込んで灌漑する計画である。

新たに1,700ヘクタールの「大響営農場」が昭和2(1927)年に開設された。洪水や日照りで土地を失った農民たちを入植させ、新築家屋、農地、耕作機械、水牛を貸し付けた。7年後には農家の人口が1,145人までに増加した。

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