『Japan on the Globe−国際派日本人養成講座』より転載
「これほどの荒蕪地は、見たことがない」
信平が「台湾精糖」の農事部水利課長として採用されて、この地に着任したのは大正3(1914年)10月のことだった。屏東平原の東端の荒れ地約2,128ヘクタールを開拓して、サトウキビ農場にすることが、彼に与えられた任務であった。
信平は着任するなり、農場開設予定地の下見に出かけた。岩だらけのデコボコ道を車で行くと、体が跳ね上がるほど揺れる。荒涼とした風景の中を土煙を上げて走る車を、原住民が珍しそうにじっと見ている。信平は自分がいよいよ異空間に入ったことを実感した。
一行は、見渡す限り大小の石ころで埋まる農場開設予定地に到着した。案内する農事部の社員が言った。
乾期は、地下を2メートル掘っても一滴の水すら出てきません。3月は極端な干ばつが襲い、人間や家畜の飲み水はまったく手に入りません。ところが5月から雨期が始まると、こんどは洪水が襲い田畑は水に浸かってしまいます。
信平はしゃがみこんで、土壌を調べた。コンクリートと化した土層に、大小無数の石がぎっしりと埋まっている。「これほどの荒蕪地は、内地でも清国でも見たことがない…」
一帯を流れる林辺渓は上流の勾配が急なうえに、保水力の乏しい土壌のために、雨期の集中豪雨では氾濫し、乾期になると干上がってしまう。毎年の氾濫で石ころが平野を覆っていた。
「そうだ、伏流水を利用すればいい」
「どこに水源を見出せばよいのか?」。これが当面の大きな課題だった。信平と部下の技師たちは原住民の若者に案内役を頼んで山に分け入り、約2年にわたって上流の勾配や雨量を測定した。
早朝の涼しい時間帯から山に向かい、重いリュックを背負って、林辺渓をさかのぼる。
「ゲートルをしっかり巻け、氷砂糖を忘れるな、キニーネを飲め」と出発前に必ず信平は部下たちに念を押した。毒蛇が這い回り、マラリヤやペストなどが猛威を振るっている地域である。マラリアの特効薬キニーネと、体力の消耗を防ぐ氷砂糖が、命の綱だった。
夜は農場予定地の一角に建てた仮設事務所に戻って、データをまとめる。
調査の過程で、乾期に林辺渓が干上がっても、川床の下を流れる伏流水は途切れずに流れ、屏東平野の海抜15メートルの地点で湧き水として流れ出ていることが判明した。
「そうだ、伏流水を利用すればいい」と信平は気づいた。伏流水を地下で貯め、そこから水を取り出せば、湧き水が出ている地点より60メートルほど標高の高い地点でも、給水ができる。
地上型のダムとは違って、住民たちの狩り場や漁場としている清流をそのまま保つことができる。生態系にも影響が少ない。そして、民間の限られた予算でも実行可能な案であった。
「おまえは立派な顔をしているので首を家に飾りたい」
大正8(1919)年、信平は工事の基本計画書を策定し、総督府に提出した。同時に蕃人とか高砂族と呼ばれていた原住民の村落を回って、50人以上の頭目に計画を説いて回った。
先祖伝来の生活習慣を守り、聖地信仰の篤い原住民の了解を得るには、彼らと対等に付き合って、対話をしていくしかない。勧められるままに頭目の家で、シカ肉やタケノコを肴に、栗から作ったどぶろくを飲んだ。
信平は、彼らの狩り場や漁場に配慮して自然を壊すことなく工事をすると約束した。ある頭目とは義兄弟の契りを結んだ。信平は彼らの伝統文化の素晴らしさや、彼らが日本人以上に義理人情に厚く、勇敢で純真な人々であることに気づいていた。そして、台湾語や原住民の言葉であるパイワン語、ルカイ語も習得した。
ただ首狩りの風習を持っていることは本当だった。ある頭目からは「おまえは立派な顔をしているので首を家に飾りたい」と真面目に申し入れがあった。剛胆な信平はこう答えた。「まあ待て。この仕事が終わったらくれてやってもいい」
こうして信平は地元の同意を得て、大正10(1921)年6月15日、高雄州の知事や警察関係者、原住民の頭目らを招き、起工式にこぎつける事ができた。