メルマガ「はるかなり台湾」より
「日台の架け橋になっている人」として本日登場するのは前台湾大学日本語文学科主任の何瑞藤先生です。先生は
長年日台の学術交流を促進する活動や、日本語教育の発展に寄与されてこられた方です。
湾生の島崎義行先生から「これは、ぼくの教え子の名簿だから、ぼくの書いた文章を本の中に入れた時は送ってほ
しい」と言われて頂いたリストの中に先生の連絡先がありました。9年前に買い求めた『台湾と日本交流秘話』の
中で日本語文学科を新設した台湾大学のことが記されており。何先生のことが紹介されていたので、「えっ、何教
授が島崎先生の教え子だったの」と驚いたことがありました。
そして何先生も台中会が出来た時に会長をお願いした施耿邨先生と同じ東洋大学出身であり、また日本で『架け橋』
の本を出す時に出版社の遠藤社長も同じ東洋大学卒だったことを知り、見えないで糸で関係者がつながっていたのです。
2010年(平成22)春の叙勲で台湾大学何瑞藤名誉教授が、日本政府から旭日中授章を授与されたことをご存じない
読者もいるかと思います。
現在の台湾を見ていると信じられないでしょうが、1987年までは戒厳令が敷かれていた台湾では日本語教育への積極
的な取り組みはタブー視されていたのです。1980年ごろから私立大学では次第に日本語教育重視の動きが活発化し、
正式に日本語学部を設立するところが広がって来たのです。国立大学では1994年の台湾大学が初めてでした。何先生は
当時を「悪戦苦闘の連続だった。」と振り返り、「これほどうれしいことは無い。自分の力ではなく、ともに頑張って
来た多くの先生や学生たち、関係者みんなに対するものだと思っている」と大変喜んだそうです。
その時受賞の喜びを下記のような文章に記していたものが、本を贈呈した時のお礼のメールとして送られてきました
ので紹介しましょう。
●御恵み深き光の中に生きて
「2010年春季叙勲授賞式」で、今井 正代表から「旭日中授章」を授かり、日本交流協会台北事務所を後にした私は
まだ胸が一杯だった。御恵み深い光を世界の果てまであまねく照らす天皇陛下の尊さと、私のような外国の一介の庶民
が誉れ高き勲章を頂戴したもったいなさに、込み上げてきた感動が収まらなかった。
私の目には、受賞式場で拝謁した両陛下のご真影が浮かんだ。そして小学生のころ、事務室の前で昭和天皇のご真影
によく最敬礼をしたことを思い出し、明治天皇が台湾の人々の生活を案じて詠まれた御製を口ずさんだ。
「新高の山のふもとの民草も
茂りまさると聞くぞうれしき」
明治の御代から日本政府はひたすらに台湾の発展、つまり近代化を図ってきた。「民草が茂りまさる」とは人口が増
えるというだけではなく、生活が改良され、豊かになることでもある。この極みなき大御心に胸が一杯だった。
まず第一に、明治28年、清の李鴻章によって日本に割譲された台湾は、化外の地とされ、不衛生なだけでなく伝染病
がはびこり、小学校もない非文明な地であった。それを日本は施政わずか5年(1895−1900)で、小学校を112校も創設
し、教育の基礎を固めた。そして65年前の終戦の年(1945)には、国民学校の就学率が73%台にまで上り、伝染病も撲
滅され、教育・交通・産業・が発達し、インフラは整備され、社会秩序も整った。文明国の仲間入りを果たしたのであ
る。1935年(昭和10年)、「台湾施政40年記念博覧会」でこの姿を目の当たりにした当時の中国福建省主席・陳儀は
「日本統治下の台湾は中国よりはるかに進歩している。日本国民になった台湾人は幸せだ」と祝辞を述べた。私たち
昭和一桁生まれの台湾人は、この幸せを身に余るほど感じている。なんとありがたいことだろうか。
次に、私の勤務している台湾大学についても深い感動があった。一般の人は、台湾大学は台湾で最も優れた大学と
しか思っていないが、台湾大学を創立した当時の日本政府が如何に台湾の文明開化に力を尽くしたかについて思うと、
私は感謝の念に絶えない。それは現在の国立台湾大学の前身が昭和3年(1928)に日本政府が創設した「台湾帝国大学」
であって、日本政府が特に台湾の文明開化に力を尽くした一大特典だったからである。東京(1886)、京都(1897)
、東北(1907)、九州(1911)、北海道(1918)、京城(1924)の諸大学に次いで、日本第7番目の大学として発足し、
大阪帝大(1931)より3年、名古屋帝大(1939)より11年早く設立された。つまり台湾大学の創設は、昭和天皇がご即
位あそばされて間もなく、台湾をあまねく輝かせた文明開化の光であった。そのおかげで台湾の文明が大きく進んだの
は言うまでもない。もし台湾があのままずっと清朝の領土であり続けていたなら、おそらく中学校さえもなかったであ
ろう。私は台湾大学の一教師として、しみじみとこのありがたさを感じる。
第三に、「知日家」「愛日家」が断絶しつつあるという現状に歯がゆさを感じている。最近、台湾観光局が実施した
アンケートによると「最も好きな国」はどこかとの問いに対し、「日本」だと答えた人は最も多く75%以上を占めてい
る。しかし、この壮青年世代の「日本が好き」は、「ファッション」、「日本料理」、「街の清潔さ」、「人々の親切
さ、礼儀正しさ」など表面的なものばかりで、これだけでは愛日家とはいえないし、もちろん知日家でもない。本当の
知日家、愛日家は日本の統治時代に少なくとも小学校六年を卒業している人、つまり現在七十五歳以上の世代で、今で
も流暢な日本語をしゃべり、教育勅語を唱え、日本歴史や文化を熟悉している人だと思う。しかしこのような方々は、
歳月を重ねるに連れてだんだん減少してきた。これは日台関係にとって一大事であり、これまでの密接な日台関係にヒ
ビが入らないかと懸念している。ある有識者は「そんなことはない、留学生数は昔より多くなっている」というかもし
れないが、修士2−3年、博士3−5年の生活に追われながらの学問には限りがあり、日本を知るにはまだまだ程遠い。
愛日家とは日本の社会を愛するだけではなく、日本国をも愛することである。社会の面だけではなく歴史の面を、形の
面だけではなく心までをも愛することだと思う。そのためには、堪能な日本語と十分な日本文化に対する理解が求めら
れるのは言うまでもない。その解決策の検討が喫緊の課題ではあるまいか。
私は今日のありがたさに如何に応えるべきかを自問し、ただただ天壌無窮の皇運と日本のいやさかを祈っている。
日本語教育と日台学術交流においては、如何にして幼いころの生活の中で日本語や日本文化に親しみ、楽しく自然に
学んでいくかが今後の課題になるだろう。こうした機会をより多く創造することが、日本語教育と将来の学術交流に
結びついていくものと確信している。
2010年6月吉日
旭日中授章者
台湾日本研究学会 理事長・
元台湾大学教授 何瑞藤