【はるかなり台湾】台中一中

【はるかなり台湾】台中一中   

メルマガ「はるかなり台湾」より転載

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【編集長の一言】

「台中一中」校門の向かい側にある屋台のパイアップル氷はとても美味しかった。

 今もやっているのかな。

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本日のメルマガは台湾中部の名門校「台中一中」について話したいと思います。
今年はちょうど創立100周年の佳節で5月1日に記念式典が行われ、また、同日、1937年(昭和12)建設された旧講堂も
同校の歴史を伝える「校史館」として再オープンしました。同建物は、2004年に市の文化財に指定されていましたが、
地震や水漏れなどで老朽化が進み、近年ではほとんど利用されていませんでした。本校卒業生の台達(デルタ)電子創業者、
鄭崇華名誉董事長(会長)からおよそ7000万台湾元(約2億7000万円)の寄付を受け、2012年から修復工事されていたのです。

(歴史)
 1898年(明治31年)に国語学校付属校の中学科として台湾で初めての中等教育が発足しました。1907年(明治40年)
5月に独立校として、台湾総督府中学校が台北に設立されました。この中学校は内地人子弟の学校で本島人子弟には
中学校がなかったので、1912年(明治45年)当時中部地区の有力者であった林烈堂、林熊徴、林献堂、辜顕栄、蔡蓮
舫等発起で、台湾総督府に対し、本島人子弟のための中学校設置を請願しました。

 1915年(大正4年)2月3日に学校創設費用は民間で負担する条件で許可になり、本島人男子生徒を収容する台湾公立
台中中学校が設立されたのです。校地、校舎等の創設に要する費用は本島人有志198名の寄付者の姓名と金額は今なお
校内に立っている創立記念碑に刻まれているのです。そしてこの記念碑には「吾台人初無中学、有則自本校始」
(我が台湾人には、始め中学校がなかった。あれば即ち本校より始まる)」との文字が書かれており、正に本島人子
弟のための最初の中学校であることを物語っています。1915年(大正4年)4月に入学試験で台湾全島の応募者から
100名を選抜し、5月1日に入学式を挙行して授業が始まりました。

 1922年(大正11年)4月に内地人子弟の為の中学校が新しく設立される時に、本島人子弟のを内地人の中学校につける
べきであるとの当局の主張に対して、父兄と生徒が反対し、当時の小豆沢校長も校長職を賭けて学校創立の順序で第一
中学校の校名を本校につけるべきであると主張して、それが受け入られ、1922年(大正11年)2月、台中州立第一中学校
と改称しました。

1945年(昭和20年)終戦後は台湾省立台中第一中学とそして、今では国立台中第一高級中学と改称され現在に至っています。

注:日本統治時代の台湾では、日本からやって来た人を内地人、台湾人を本島人と呼んでいました。

最後に戦前(日本統治時代)の校歌を紹介しましょう。
       台中一中校歌
1. 光は下(くだ)りぬ 生命(いのち)の光
  み鏡 み剣 み璽(たま)の光
  輝(かが)よひ下りぬ 我等が島に
  若(わか)やぐ命を 足る日に享けて
  歌ふや われら  南の男(を)の子
2. み空(そら)に声あり 久遠(くおん)のひびき
  「南を守れ」と 照る日の御宣(みのり)
  尊き使命に 今こそ眼ざめ
  大和田五百重(おほわだいほえ)の 潮のごとく
  きほふや われら  南の男の子
3 われらの学び舎 南の柱
  常世(とこよ)にゆるがぬ 南の柱
  真夏を彩(いろど)る 椰子の葉かざし
  あふるる力に 大地をふみて
  進むや われら 南の男の子


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