――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(11)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

【知道中国 1993回】                      一九・十二・初一

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(11)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

 6月23日に長沙に到着した上塚は、7月3日に長沙を去っている。同地における上塚の“憤慨振り”を理解するうえでも、『毛沢東年譜 一八九三――一九四九 上巻』(中共中央文献研究室編 中央文献出版社 1993年)に従って、毛沢東の動きを追ってみるのも一興だろう。

 6月に全省規模で愛国反日宣伝活動を進めた毛沢東は、7月に入るや「救国十人団」を基礎にして湖南各界聯合会を組織する。14日には自らが編集・発行の責任者となって『湘江評論』を創刊する。

 創刊宣言において毛沢東は、「世界で何が最も大きな問題であろうか? メシを食べる問題である。どのような力が最強だろうか? 民衆が聯合した力が最強である。何が怖くないか?天は怖くない、鬼(バケモノ)は怖くない、死人は怖くない、官僚は怖くない、軍閥は怖くない、資本家は怖くない」と記している。

 長沙を拠点に革命活動を続けているが、10月5日に母親である文氏が病死したことを知り、直ちに帰郷している。

 ここで上塚の旅に戻る。

 6月29日、宿での朝食後に知事公署を訪ねる。不在の知事に代わって応対した「第一課長〔中略〕態度傲岸一見極めて不愉快を感ず。排日運動勃發以來、到る所支那人の白眼に遇せらるゝ事は既に馴れたれども、湖南に入りてより其の度愈加はるを覺ゆ」。ということは毛沢東の指導が“適切”だった。いや、社会に漂う反日風潮を毛沢東が捉えていたのか。

 上塚が辞を低く接しても打ち解ける気配がないばかりか、こう“説得”してきた。

 「當地には多數の學生軍人が居るから、どんな事でも誤解を招かんとも計り難い。依て一切外出は御見合せあり度し。目下の状況では、商務の研究など、到底滿足に出來ないのであるから、滯在せらるゝ事は無意義である。一日も早く撤退せられん事を望む。而して汽車は危險なれば、水路日本汽船に依られ度し」。

 その足で日本領事館に向かう。上塚の消息が南昌以降途絶えたままだったので、殺されたとの報道もあったほど。そこで外務省や満鉄で大騒ぎになり、外務大臣は中国側の所轄部署に捜索を依頼したことを知る。先に記したように、「時の外相内田康哉伯並に盟友柴田�次郎兄」が尽力したととのことだが、このことを差しているのだろう。

 上塚は湖南省で体験した排日熱に関して、「湖南は其の運動最も猛烈を極め、今尚日本人に對する險惡なる氣流�溢なるを見る。人湖南を呼んで『小日本』と云ふは、蓋し湖南人の性強烈にして氣慨あるを稱するなり」と記す。そう「性強烈にして氣慨あ」ったのだ。

 某日、辛亥革命前後に湖南省各地を探査し、アンチモニー鉱の開発に尽力している春原隈次郎を訪問する。じつは湖南省にはアンチモニーの有力な鉱脈があり、孫文らと共に革命運動に挺身した湖南派の重鎮である宋教仁なども、革命資金作りにアンチモニー鉱山に絡んだことがある。

 春原のアンチモニー採掘事業は最初は辛亥革命後の混乱で着手できず、次は第一次大戦の結果、「『アンチモニー』鉛の代價俄に昂騰し、同時に内地の事業熱も亦旺盛を極るに至りしを以って」、1915年春に再び長沙に乗り込み当初の計画を実行に移そうとした。だが、折あしく「日支交渉に依る猛烈なる排日運動勃發し」、残念ながら中断せざるをえなかった。苦心惨憺の上に1915年暮れに操業を始めたが、1917年になって「南北戰爭始り、戒嚴令布かれ交通途絶」のため、1918年1月には事業中止の止むなきに至った。「昨今は排日運動の爲に全く窮況に陥り、空しく作業を休めて世態の平隱に復するを待」っている。《QE


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