――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(23)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

【知道中国 2005回】                      一九・十二・念五

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(23)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

伊東は上海を発し、揚子江沿いに西行して貴州省の省都・貴陽に到着した。

「貴陽武備学堂の高山少佐(今の高山大佐公通氏)以下の学堂諸君の歓迎を受け、久々にて我が同胞の温かき情に旅の疲れを休めた。此の武備学堂は貴州省城の南郊にあり、六名の日本教習が教鞭を執って居ら」た。

当時、中国各地の地方政権指導者の多くは先を競って武備学堂、つまり士官学校を創設し、日本から軍人を招いて強兵教育を目指した。西欧列強の侵略から郷土を守るためには富国強兵が第一であり、ならば日露戦争に勝利した日本に倣うべし。そこで有為の若者を日本式軍人教育で鍛え上げ、自らが押さえる地域の富強を目指そうとしとたわけだ。

貴陽からの旅は、「先年此の地を歩渉せられ、当地に数日滞在され」た鳥居龍蔵が「旅行中乗用された轎」に修繕を加え使っている。鳥居は伊東より早くこの地に足を運んでいた。

さらに西南に進み上塞駅に着くと、「思いがけなや我より先に二人の日本人が休息していた。互いに余りの意外に呆れて、しばし顔を見詰めていたが、やがて互いに名乗るを聞けば、一人は京都第三高等学校生野村礼譲君、一人は同茂野純一君であった」。野村は英文学志望で岐阜大垣出身、茂野は哲学志望で和歌山有田の人。

2人の若者が、なぜ西南中国の山中にいたのか。伊東は続ける。「彼の京都西本願寺の大谷光瑞新法主が印度探検の一行に加わるべく、法主の招聘に応じて昨年の大晦日に日本を発し、印度に向いた」。ところが先代法主が急逝したため大谷光瑞新法主が急遽帰国したことから合流が叶わなかった。だが、後に新法主とはビルマ中部の要衝で、中国人が「瓦城」と呼ぶマンダレーで面談できたというのだが・・・。

その折、大谷新法主は「両氏に雲南より漢口に出て日本に帰ることを命じたので、今や漢口に向かう途上にあるのである」。そこで伊東は2人と終日語り合うことになるが、「私は光瑞新法主の雄図を両氏より詳らかに伝聞して感興禁じ難く、つくづく今自分の試みつつある旅行の姑息にして小規模なることを恨んだ」という。

現在でも中国西南は日本からは遥かに遠い。であればこそ、100年以上も昔の同地における調査旅行が「姑息にして小規模」であるわけがない。にもかかわらず伊東が「雄図」と驚嘆した大谷の旅行はどのような規模だったのか。想像するだけでもワクワクしてくる。

伊東は西南方向に進む。

呂南街で出会った英国人牧師は、「井戸川大尉の一行及び高等学校生徒の五人連れの一行に邂逅したと云」う。井戸川大尉一行の目的は、来るべき戦争に備え、この地域の兵要地誌作りではなかったか。では高等学校生徒たちは、これまた同じような用向きだったのか。あるいは上海の東亜同文書院学生が大陸各地を長期間掛けて踏査する恒例の「大旅行」の途次だったのか。それにしても怪しいのが英国人牧師だ。彼は雲南在住で「今緬甸の方から帰るところであるが今日は日曜日であるから旅行を見合わせ一日読書に耽っていると云う」。やはりインテリジェンス・サービス要員と考えるのが常識というものだろう。

いずれにせよ中国西南辺境からビルマ北部、さらにインド東部にかけ、列強の利害と打算が入り乱れ渦を巻いていたことだけは確かだ。この国際的なゲームに、日本も鋭く参加していたと考えたい。

さらに西南に進んだ黄連舗で、その井戸川大尉一行に出会うことになる。

「聞けば井戸川大尉は二月初旬より重慶を発し瀘州に至り、雲南を訪い、安寧州より間道を経て景東に出た」。「景東より更に間道に由って騰越に行かんとせしも道路一層困難なりと聞いて下関に出で、順路緬甸に入りて今重慶に引き返すところである」。《QED》


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