――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(1)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

【知道中国 1981回】                      一九・十一・仲一

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(1)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

 上塚司(明治22=1978年~昭和53=1978年)は熊本の産。熊本商業学校、神戸高等商業学校を経て、南満洲鉄道に入社。以後、9年間、中国経済研究を担当。その当時、2年ほどをかけて「揚子江流域の各省を踏査したる當時の紀行隨筆」が『揚子江を中心として』である。帰国後、立憲政友会から衆議院議員選挙に出馬し初当選。以後、昭和30(1955)年の総選挙で落選するまでに前後7回当選を果たす。

この間、高橋是清能省務大臣秘書官(大正13=1924年)、高橋是清大蔵大臣秘書官(昭和2=1927年)、国士館拓殖高等学校校長(昭和5=1930年)、斎藤内閣大蔵参与官(昭和7=1932年)、第1次吉田内閣大蔵政務次官(昭和21=1946年)、衆議院外務委員長(昭和28=1953年)などを歴任。衆議院外務委員長を務めた際には日米相互防衛援助協定に伴う秘密保護法案を委員長決議で可決させている。

昭和初頭よりアマゾン流域開拓のための移民事業に尽力したことから、「アマゾン開拓の父」とも呼ばれ、その功に由り昭和30(1955)年にブラジル政府より南十字星大勲位章受章。勲二等瑞宝章受章(昭和40=1965年)、熊本県城南町名誉町民(昭和52=1977年)。

『揚子江を中心として』の巻頭には高橋是清、田中義一、野田卯太郎、頭山満、孫文、張謇、唐継堯、徳富蘇峰、水島鉄也、小泉策太郎などが揮毫を、徳富、水島、小泉が「序」を寄せている。これだけでも彼の交友関係、立ち位置が浮かんで来ようというものだ。

そのなかで水島は、「我國人は今尚ほ支那内地の風土情勢に暗く、其の土俗習慣に疎くして、所謂親善は單に辭令に止まり、提携も亦全く空想に過ぎざるの憾あるは、即ち今日の實情なりとす」。日本人は外国事情研究に無頓着と言えばそうではない。「我國人の海外視察熱は近年非常に増進し」ているが、「然れども其の赴く所は歐洲に在らざれば米國なり」。「偶々支那に向ふものあれば、僅かに奉天、北京、青島上海等の數ケ所を巡歷するに止まり、深く内地に入りて未知の支那國を研究し、純眞の中國民に交際する者の極めて稀」だ。

「日本人は何故に斯くまで、歐米を尊敬し且つ重視し、支那を侮蔑し且つ輕視するか」。「畢竟するに明治維新後、歐米文化の輸入に急なりし時代の因襲に因るの外何等の特別の理由あるを認めず」。だが「我國は現今政治的にも實業的にも、遠き歐米よりは近き支那を遥かに重視せざるべからざるの情勢にあるは、今更多言を要せざるなり」――と記す。

どうやら大正末年には「深く内地に入りて未知の支那國を研究し、純眞の中國民に交際する者の極めて稀」であり、尚且つ「我國は現今政治的にも實業的にも、遠き歐米よりは近き支那を遥かに重視せざるべからざるの情勢にあ」りながらも、「歐米を尊敬し且つ重視し、支那を侮蔑し且つ輕視」していたことになる。

「序」の最後に置かれた著者自身のそれは、「世界に大河あり、南米の『アマゾン』北米の『ミシシツピー』埃及の『ナイル』インドの『ガンデ井ス』共に其の大を、能く我が揚子江と相競ふ。然れども、灌域の豐饒にして、居住人口の多き、舟運の便廣くして、風光の變化に富める、果して何れの河か、能く此れに比肩すべき。/げに揚子江は百川の王にして、其の流域は世界の寶蔵たり。而して、之れを究むる愈深くして、興趣愈豐なるを覺ゆ。/いざさらば、筆を驅して、揚子江禮讃の譜を奏せん哉」と、大正ロマン溢れる調子で結ばれている。上塚もまた弊衣破帽の青春時代を熊本と神戸とで過ごしたのだろう。

『揚子江を中心として』は上下2冊で全830頁。多くの頁を「揚子江流域の各省を踏査したる當時の紀行隨筆」に割くが、やはり注目すべきは687頁から始まる「列國覇權夢の跡」と題された「揚子江流域に於ける列國鐵道利權競爭」である。

それでは、そろそろ上司の「奏」す「揚子江禮讃の譜」に心静かに耳を傾けたい。《QED》


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