――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(37)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
冷静・客観的に判断すれば、欧米列強は日本を依然として「支那の執達吏、番犬たらしめん」とする下心を隠さない。日本に「無智驕慢なる番犬」の役割を与え続ける。だが、何時までも、そんな役回りに甘んじているわけにはいかないだろう。
かくて上塚は、「日本は最早此の如き愚直と、追隨の痴呆を止めねばならぬ。資本的侵略主義の下に、支那を分割せんとする白哲人と相携へて、此等諸國の傭兵となり、我が親しむべき同胞を侵犯する事は、日本國民の主義として許さざる所である」と決意を披歴する。
だが彼らを、はたして「我が親しむべき同胞」と無条件に信頼していいものだろうか。
上塚は「日支兩國は經濟的競爭の立場に置かれるべきではない。相共助して生存し得べきものである。隣國を束縛し、其の死命を制する事は歐米人の喜ぶ所ならんも、我が日本にとりては、何等の利�をも齎らさない」と続けた後、『揚子江を中心として』の長かった旅を、次の一文で閉じている。
「我が愛す可き隣人に對して温き友愛の誠を注げよ。彼をして蘇生せしめ、健康ならしめる事こそ、我が日本の前途に光明あらしむる唯一の方法である。(完)」
だが「温き友愛の誠」など、利害打算が無限に絡み合う国際政治の場では通用しない。
上塚が筆を擱いた大正14(1925)年10月から1年ほど遡った1924年11月、孫文は上海を出発し日本への最後の旅に発つ。神戸で約10年ぶりに再会を果たした頭山満に対し、「此の際特に二つの問題を支那の爲に御盡力を御願ひしたい。第一は治外法權の撤廢と第二は税權の獨立である」(藤本尚則『巨人頭山滿翁』頭山翁傳頒布會)と懇願したという。
それから程ない11月末、県立神戸女学校で講堂を埋め尽くした約2000人の聴衆を前にした孫文は、あの余りにも有名な「大亞細亞問題」を説いた。
「日本が(列強との間で結ばれた)不平等条約を撤廃した日が、我々全アジア民族の復興の日だった」「日本がロシアに勝利した日から、アジアの全民族がヨーロッパを打ち破ろうとして、独立運動が発生した」(『孫文革命文集』岩波文庫 2011年)――こう日本を“賞賛”する一方で、孫文は次のように“注文”することを忘れてはいない。
「日本民族は、欧米の覇道文化を取り入れた上に、アジアの王道文化の本質をも持っていますが、今後は世界文化の前途に対して、結局のところ西方覇道の手先となるのか、それとも東方王道の防壁となるのか、それはあなたがた日本国民の、詳細な検討と慎重な選択に懸かっているのです」(同上『孫文革命文集』)。
そして「日本は世界の三大強國と誇ってゐるけれども思想その他の方面において儘く後塵を拝しつつあるのではないか、これは日本人が脚下の亞細亞を忘れてゐるためであつて日本はこの際速やかに亞細亞に歸らねばならぬ、而して第一着手に先づ露國を承認すべきだと思ふ」(『大阪毎日新聞』大正13年12月9日)とも付け加えた。
やがて帰国の途に就いた孫文は船中で体調を崩し、日本を離れて3か月後の1925年3月12日、北京で「革命未だ成らず」の一言を遺して不帰の客となる。
以上を要するに、日本は「西方覇道の手先」から脱し、「速やかに亞細亞に歸」り、本来の「アジアの王道文化の本質」に目覚め、「東方王道の防壁となる」べきだ。その第一歩として「露國を承認すべきだと思ふ」というのが孫文の趣旨だろう。だが、ソ連が新しい形の「覇道国家」であり、孫文の期待したような「王道国家」でなかったことは、その後の歴史が明らかにしている。
はたして中国は「我が愛す可き隣人」なのか。日本は西欧列強がアジアに据えた「無智驕慢なる番犬」に過ぎなかったのか。またまた大難問に突き当たってしまった。《QED》