――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(6)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

【知道中国 1988回】                      一九・十一・念一

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(6)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

 宮崎の“異文化体験”は続く。

いよいよ小雨の汕頭を出港するのだが、波が中々に高い。そこで「支那人中嘔吐を催すあり、用意の竹筒に糞を垂るゝあり、居乍ら小便をやるあり、阿片を吹ふあり、彼や是や打雜りて一種言ふ可からざるの惡臭をモグルが如し」。そこで滔天も頭がクラクラしたのだろう。「迚もたまらず甲板に出で見れば、幾百の御連中は雨にぬれつゝ糞小便の中に身を�へて足蹈む場もなし」。

 かくて「嗚呼、彼等の豚尾漢たる所以豈に唯其尾のみならんや」。じつは甲板上の各所に「此處不可小便」、厠に「諸位人客等、如欲到此大便者、祇用草紙、不可用竹枝仔以鎭寒水空、如有違者有辱、?此告知」と注意喚起の貼紙をしているが、一向に守られない。いわば糞小便の垂れ流し状態だった。

 そこで宮崎は悟った。「(彼らと)同舟せんものは醜美無差別、糞味噌一躰の平等界に悟入せるものに非ざれば、生等の如き凡夫では到底出來ず。去れど人間と云ふものは中々死なぬものに候」。

 我慢に我慢を重ねた2日程が過ぎると突然やって来た船長から「此處に居つて病氣しては惡き故、支那人の通行を遮斷して座を設け置」いたからと声を掛けられた。そこで「(日本人)一同元氣付き荷物を運んで直に船長室の傍に居直り漸く談笑高吟の境に入り申候」ということになる。

一安心といったところだが、落ち着けば落ち着いたで暇を持てますことになる。そこで一同のうちの1人は「彼等を相手に日本語を�へなどして船中の無聊を遣」ったそうだ。(以上、『宮崎滔天全集 第五巻』昭和52年 平凡社)

 南洋行きの汕頭発便がこうだったということは、おそらく厦門発も大同小異といったところだろう。

 上塚に依れば、厦門と出稼ぎ先の南洋の間には「移民輸送を目的とせる汽船會社すくなからず」。たとえば「Lin Chin Tsong & Co.」社は「英國籍支那人の經營」で、厦門とシンガポール間を専門に運行されている。往路は苦力に加え、「海峽殖民地在住支那人の需要する茶、紙、綿糸、刻煙草、紙傘、支那酒、製烟等雜多なる本國品を搭載す」。

 厦門から南洋に職を求めて出稼ぎする人数は「年々十萬を數へ、其の歸來するもの又七八萬ありとせらる」。このように「南洋との交通煩繁なるが故に往航少くとも七八百多きは千二三百を算し常に盛況を呈しつゝあり」。「復航には新嘉坡よりの歸來客及蘭貢米其他南洋寄港地より香港揚げの荷物を積來す」。

 福建・広東と南洋を結ぶ航路事情に基づいて、上塚は(1)「北支那(大連、天津、青島)方面と南支那殊に福州、厦門方面とを結ぶ日本人經營の航路なきこと」。(2)「福州厦門間を結ぶべき日本船なきこと」。(3)基隆福州間及上海又は厦門間を結ぶ日本船の航海數餘りに少なきこと」。(4)南支那南洋線に於て尚日本船の割込むべき餘地あること」。(5)「各航路とも相當の利潤を収め得べきこと」――と主張する。

 結局、他国で他国が経営する船舶を利用することは「不便にして且不愉快なる」ものであるだけでなく、「民族發展及貿易の伸長に少からざる障害たるべきは今更茲に論ずる迄もなし」。かくして「今や我船舶界も講和問題の影響を受けて稍もすれば船腹の過剩を患へんとするに際し、吾人は當局及當業者が速かに當方面に注目せん事を希望して止まざるなり」。

 ベルサイユ講和会議後の船舶不況を乗り切るためにも、日本企業は中国南部沿海をハブとし北の満洲から南の南洋に伸びる航路に商機を求めよ――ということだろう。《QED》


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