――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(10)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

【知道中国 1992回】                      一九・十一・念九

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(10)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

 「惡臭」を我慢していればこそ、やがて芝居は佳境に差し掛かり、舞台の上には必ずや夢幻の世界が立ち現われ、至福の一刻がやってくる。加えて芝居を軸に動く村人の生活に接することが出来たものを――実に惜しいことをしたと思う。

 やがて6月20日、「重なれる山々の彼方に萍郷炭坑の煤烟を望む。濛々として�空を焦がす煙筒の烟、無刺戟に眠りし如き我が胸を衝いて動揺せしむ」。萍郷から爪先上がりの山峡の道を「十五支里」ほど進むと、漢治萍公司が経営する安源炭鉱に至る。「從業員五千人、一日の出炭量約二千屯乃至三千屯なり。塊炭は其儘に輸出し、粉炭は骸炭の製造に用ふ」。

 上塚が安源炭鉱を訪れた3年後の1922年、毛沢東は劉少奇、李立三、夫人の楊開慧らと共に同地で大ストライキを指導している。中国共産党正統史観に基づくなら、毛沢東が指導した正統労働運動の発祥地ということになるわけだが・・・。

 6月23日、湘潭の街に上陸する。宿を求めて「凡そ十二三ケ所も尋ね」たが、「悉く『没有房子』を以て拒絶せられ」たという。致し方なく知事に依頼しようと知事公署に向かったところ、「途上白旗を掲ざせる小學生の一隊に會ふ。旗面文字あり『日貨抵制』と。即ち日貨排斥のデモンスツレーションなり。宿を求めて斷はられし理由茲に於てか分明す」。

 宿の提供を承知した後、知事からは「學生講演團の排日演説あり、民心稍昂奮の状態にあれば、無智なる者如何なる無禮を爲すやも計り難し、翼(「冀」の間違いか)くば暫く市の調査を中止せられ度し、若し強て外出せらるゝとせば、人の目に立たぬ樣」に行動せよとの忠告があった。

 湘潭は毛沢東の生まれ故郷である。1893年生まれだから、上塚が湘潭を歩いた大正8(1919)年には26歳になっていた。北京で共産主義の洗礼を受け、五四運動に刺激され湖南で新民学会を組織し、愛国運動を展開している。

 毛沢東の生涯を詳細に綴った『毛沢東年譜 一八九三――一九四九 上巻』(中共中央文献研究室編 中央文献出版社 1993年)の1919年6月の項に、「6月 毛沢東は湖南学生聯合会幹部と夏季休暇を利用し青年・学生を組織し、都市や農村、駅、埠頭に派遣し、愛国反日宣伝を行った」と記される。ここで妄想を逞しくするなら、上塚が湘潭の街で出くわした排日の動きは、毛沢東の指導によってなされたものかもしれない。

 24日、上塚は湘潭城外の総商会を訪ねる会長に面会するが、「應對無愛想を極む」。転じて日本人経営の日清汽船会社に向かうが、「事務員は支那人のみにて質問に對する答辯は一として要領を得ず」。次いで訪れた中国人経営の船会社では、「經理先生冷かなる事水の如し。已ぬる哉已ぬる哉。今や日本人の立場悉く非なり」。

 「今日湘潭に於ける市民の態度は、少なからず我が感觸を害せり。此の状態を以てしては如何に努力するも遂に所期の収穫を得る事不可能なり」と慨嘆する上塚は、湖南省の霊峰で知られる「南嶽衝山の絶嶺に衣を振ひ、此の鬱屈せる氣を晴らさん哉」と、知事に衝山行きを掛け合うのだが、「知事應ぜず頻りに其の危險を云々して思ひ止らく事を請ふ」。だが上塚の執拗な申し出に遂には折れた。

 衝山県行きの汽船に乗り込むが、「船には北兵萬載して足の踏み入るべき餘地もなし。無智可憐の兵は民衆に對して極めて暴慢なり。我等は房艙(一等)の切符を所持し居れども既に北兵に占領せられて、如何に立退きを迫るも應ぜず。止む無く事務長に五弗を追贈して、辛じて機關室の側に一房艙を得たり」。

 6月29日、湖南省の省都である長沙到着。「久振りにて、殷賑の街路に心躍るを覺ゆ」と記すが、激しい排日運動に迎えられた。さて毛沢東が指導していたのだろうか。《QED》


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