――「彼等の行動は生意氣の一語に盡きる」――石井(1)石井柏亭『繪の旅 朝鮮支那の巻』(日本評論社出版部 大正10年)

【知道中国 1904回】                       一九・六・初三

――「彼等の行動は生意氣の一語に盡きる」――石井(1)

石井柏亭『繪の旅 朝鮮支那の巻』(日本評論社出版部 大正10年)

 石井柏亭(明治15=1882年~昭和33=1958年)は東京生まれの洋画家で詩人。父親の石井鼎湖の下で幼少時より修業を積んだが、父親を早く亡くしたことから苦労の連続。やがて挿画作家として一本立ちする一方、『明星』への投稿をキッカケに詩人としても活躍。二科会、一水会、文化学院などの創立に参画。帝国芸術院会員でもあった。

 「晩春初夏の數月を遠く且長い旅行に費やす慣ひを得た」石井は、「大正八年には支那へ行った」。この年は西暦で1919年。中国では五・四運動が起こり、反日・日貨排斥の動きは北京のみならず日本と関係深い上海、天津などの港湾都市で発生した。そこで石井の旅は「非常な束縛を受け」、「上海附近僅に蘇浙兩省に限られた」だけで終わっている。

 上海郊外では龍華寺を目指す。途中、「端艇の練習に來た」「同文書院の學生に出偶ふ」。寺の手前の畑では「纏足の農婦の耕すのを見てあれでよく勞働が出來たものだと思ふ」。纏足であればこそ「固より活潑には行かない。ただよたよたした足取りで野良仕事をやつているのが珍しい」。

 石井が「菜種の上に少し傾いた龍華の塔を見て面白いと思」った時から遡ること17、8年の明治30年代半ば、「厚き氷の下に暫く閉じ込められし我が宿志、即ち清国の女子教育に従事したしとの希望」を実現させた河原操子は、「純然たる女子教育の目的を以って設立せられ、東洋人の手で経営」される清国最初の女学校である上海務本女学堂で教鞭を執っていた。

彼女の回想記である『カラチン王妃と私』(芙蓉書房 昭和44年)に、「休憩時間には、我は率先して運動場に出で、生徒をしてなるべく活発に運動せしむる様に努めた」が、「多年の因襲の結果としての」纏足から「思うままに運動する能わざるは気の毒なりき」。よろよろと歩かざるをえない上海務本女学堂の女子生徒らは、「されば大なる我が足、といいても普通なるが、彼等には羨望の目標となりしもおかしかりき」と綴られているように、纏足は一定階層以上の家庭の子女のもの。一般労働者や農民の子女が纏足であるわけがないはずだ。ならば、あるいは石井が目にした「纏足の農婦」は根っからの農民というよりも、上層階層の子女の没落した姿と考えられる。上海郊外の畑の中に20世紀初頭の中国社会の激動を見ることができる・・・とは、些か早とちりだろうか。

目指す龍華寺は今兵営となっていた。寺など兵営にする必要はなかろうと思うが、案内人は「金がないからでせう」と。兵営は置かれているために附近は荒れ放題。石井の期待したような龍華寺の風情は望むべくもなかった。

「寺前の廣場で小人數の敎練を見たが、年取つたのと若いのと、丈のたかいのと低いのと入交つて實に滅茶滅茶なものだ。而して彼等は暇さへあれば近隣の茶館に入つて賭博でもやるのだらう。其れ鼠色の軍服にしても實にだらしのないものだ」。

龍華寺の塔を仰いで居ると、線香売りの女が近寄ってきて一束を無理やり石井の「隱袋に入れさうにしたから、はたき落してやたつた」ら、線香が折れて女はブツブツと文句を言う。そこで石井は「自業自得である」と留飲を下げている。

中国の観光地で物売りに纏わりつかれ、愚にもつかない土産を買い込む羽目に陥った日本人は多いはずだ。執拗さに立ち向かうに淡泊さ、執念に対するに諦念・・・これでは勝ち目がないことは最初から分かっている。線香を「はたき落してやたつた」石井は「自業自得である」と半ば自慢げに記すが、おそらく線香売りの女は1人だったわけではなかったはず。同類がワンサカと集まってきて石井を取り囲んだのではなかろうか。これはもう無駄な抵抗をせずに、三十六計を決め込むしかないのだ。情けない話ではあるが。《QED》


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