――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(6)渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)

【知道中国 1894回】                       一九・五・仲四

――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(6)

渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)

 大連の街を歩き、「日本民族不撓の發展的精神は、時代を閲して達せられたといふべく」と絶賛する。だが山縣通り、大山通り、奥町、寺内通りなどといった地名に対しては、「武人の名を命じて喜へるが如き、痴氣、稚心、最も笑ふべく、余の最も不快とする所、亦大志ある日本民族の不用意の極みといふべきなり」。満鉄が「日本民族發展の大動脈となり、文化的經營を以て發展の良法と」するなら、このような「街名を改むるべく、斷じて斯かる痴氣、稚心の繼承を以て進むべからざるなり」と苦言を呈す。そう、「稚心」去るべし。

 「宛然これ一大國家、一大政府を成すものといふべ」きほどの満鉄だが、そうであればこそ「其責任、其影響の亦至大なるものあるを思はざるべからず」。その振る舞いは確実に「支那の政府及人民の意志と利害とに影響するところ少なからず」。やはり「北伸的日本勢力の消長を左右する位置にあることを忘れるべからざるなり」。

 だから満鉄は「國民の同情と後援とにより、外務、陸軍兩關係者と相理解し相協調して以て大に其地歩を進むるにあらざれば」、「終に無用の長物視せられ、其組織を改め、其權限を縮少するの主張に會する」こともある。現状に自己満足してやりたい放題を続けるなら、いずれ満鉄の無用論・解体論も起きかねないということだ。

 確かに満州各地で邦人は意気軒高と活躍してはいる。だが実態は万事が満鉄頼みで、「殆ど滿鐵の寄生蟲の如」し。だから「滿洲其他競爭地點に立てる邦人が、滿鐵事業の縮小に驚愕狼狽し、日軍撤兵の説に憤慨し且恐怖するもの、主として依頼心の過大なるによる」のである。

 満鉄であれ在留邦人であれ、日本の方向のみを向くのではなく、「直實、忍耐、隱健の裡に進取の氣象を發揮し」、夜郎自大にも自己中にもならず、日々接する諸外人に対し「尊重と愛撫の精神」で接すれば、「日本民族の前途」は輝かしいものになるはずだ。

 であればこそ、「支那人學童に對して強ひて『君が代』を學習せしめ、彼等の無意識に之を歌ふを見て大に喜び、却つて其父兄の内心に憤慨を煽動するの不利なるを悟らざるが如き武斷的�育法は斷じて改め」るべしとの現地教育関係者の「絶叫」に、「眞に一理ありといふべし」と綴った。

 大連における満鉄と、その満鉄を頼りにするしかなかった日本人の振る舞いから受けた渡邊の印象は、渡邊に遅れること10数年後の昭和13(1938)年冬にソ満国境に位置する孫呉を訪れた小林秀雄の憤怒と諦念にも似ているように思う。

 昭和13(1938)年11月上旬、小林は蒙開拓青年義勇隊孫呉訓練所に向かった。満蒙開拓青年義勇隊とは昭和12(1937)年11月の閣議決定で成立し、翌13年1月に茨城県内原訓練所で始まった2、3ヶ月程度の訓練の後、満蒙に送り込まれた青少年開拓団員である。もちろん防衛の任務も課せられていたが、彼らの活動は昭和20年8月の敗戦で途切れる。

 時に零下22度。小林は孫呉訓練所で「会った幹部の指導者達に、満州生活の経験者と呼んで差支えないと感じた人を見付け出す事はできなかった」。ならば満蒙開拓青少年義勇隊という極めて“野心的な試み”は、最初から頓挫する運命にあったというべきだ。「この新しい仕事には、皆言わば素人であった」わけだから。

小林の説く「この新しい仕事」を満鉄に依る満州経営に、青少年義勇隊隊員を満鉄に頼るしかなかった邦人に重ね合わせるなら、満州経営にせよ蒙開拓青年義勇隊にせよ、その実相が浮かび上がってくるように思える。やや強引に結論を急ぐが、やはり満州経営にしても「皆言わば素人であった」。素人であればこそ“手加減”が判らない。そこで「支那人學童に對して強ひて『君が代』を學習せしめ」て満足しているのではなかろうか。《QED》


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