――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(15)
渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)
「利己的箇人主義の極度を發揮する」ものであり、「安逸、利得の外、何ものもなく『明日の百より今日五十』を以て偸安的動物的生活に其日を送りて平然」とし、栄耀栄華を満喫している者も貧乏人も同じように「今日主義を以て其身の無事に滿足」している。
「財政紊亂、内訌續發、殆ど自ら手を下す能はざる状態にあり」、「今や民國の状態は、滿清の末路にも劣ること遠い」からこそ、この国を救うためには「外人の力に待つのほかなかるべきは、必至の運命」だ。「支那は終に列國共同管理(分割的委任統治の形勢を馴致すべき)の下に立つ形勢を現に自ら提示しつゝあると斷ずるの外なし」。
だが「若し眞に支那人にして」、自民族の「愚を悟り、凋萎せる四千年來の中華文明に新花を加へ、宗主的亞細亞民族たる權威を回復し、東西の長所を調理して」、世界に対すべしとするなら、「宜しく鞏固なる中央的權力を作り、同種の日本民族と結託して、眞劍的に徹底的革新を斷行し、敢て歐米の離間的嫉妬的助言」を退けるべきだ。
確かに「支那人中往々米國に親しむべくして日本に近づくべからざるを信ずるもの」がいないわけではないが、やはり「『血は水よりも濃し』、同文、同種、融化の實久しき日支人は、同一亞細亞民族の性情より、又其地理的利害より、到底爭ふ能はず、又離るべからざるなり」。このように「日支兩國相信じて相提携し、同心協力、邁進して避けずんば何ものも之を遮るものなかるべし」。
いまや「日本にして支那と強戳する時」であり、「靜に支那を改善し、東西の文明を調和し、以て『大和保合』の綜合的世界文明を樹立するの使命を果し得べ」きだ。確かに「温言を以て支那に近より來たる米國の如き警戒すべき」だが、米国は決して「仁義の國」ではない。「他國の内亂を煽動して之に乘じ、其國土を割いて自家の保護下し招致し、其内事に干渉して利權を占むる國」だ。そういわれれば21世紀の現在も「仁義の國」ではない。
アラスカ、カリフォルニア、テキサス、ハワイ、フィリピン、プエルトリコ、キューバ、パナマ、メキシコを見るまでもなく、かつては「日本も亦提督ぺルリの爲に沖縄を根據として侵略せられんとした」ではないか。そのうえ「自ら首唱したる國際聯盟に入ることを拒み、熾に陸海の兵備を張るものは米國」ではないか。
こういう状況下で「日支兩國の内、一にして米國の命下に入」れば、「他の一は自ら保つ能は」ず。この点を「支那たるものは深思」すべきだろう。
やはり「支那人が日本の援助によつて立つは今日を措いて復好機なからんとす」。「支那の今日、日本によつて革新を全うせんとするは、自ら濟ふ」だけではなく、「又白人の爲に奴隷の境遇に沈淪せる他の有色民族に對する一大刺戟、一大奨勵たるべきなり」。
かくして渡邊は「吾々日本人としても亦大いに覺悟すべき所にあらずや。帝國の使命は�重大にして前途の崎嶇愈多し」の一文を以て、『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』を閉じた。
渡邊の主張を屋上屋を重ねたように引用したのは外でもない、「『血は水よりも濃し』、同文、同種、融化の實久しき日支人は、同一亞細亞民族の性情より、又其地理的利害より、到底爭ふ能はず、又離るべからざるなり」といった類の、“アジア主義”の5文字で括ることができるような考えが、じつは日本の針路を誤らせることに繋がったのではないのか、と思うからだ。
はたして当時、日本では「日支兩國相信じて相提携し、同心協力、邁進して避けずんば何ものも之を遮るものなかるべし」などとマトモに信奉されていたのだろうか。「日支兩國相信じて相提携し」たことで、幸が日本にもたらされたことなどなかったと思うが。《QED》