――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(13)
渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)
済南日報社長の語る「大いに支那談」をもう少し続けたい。
「日本は進んで支那に干渉するを要せず」。
「支那の漸く過激化せんとするは事實なれども、恐るゝに足らず、(なぜなら、それは)自家生活の手段に過ぎず、排日の如きも亦然らんのみ」。
「支那の政治家、軍人、學者、學生等の内、果して國家的統一を施す能力あるべきや、(中略)日本流の仁義道德を以て規矩とすれば、到底之に適合するものなきが如し、されど、保身、生存の道にかけては、非常に優越せり、日本人は支那人の此長所を忘るべからざるなり」。
渡邊の記す所から判断して、済南日報社長は「亦深く支那の事情に通ぜるもの、其見る所」は上海の東亜同文書院教授の「西本氏と一致せる點多し」だが、「支那人の同化力」に関する見解は真反対だ。現在にまで続く状況を振り返ってみるなら、やはり済南日報社長が正しかった。現在に至るも、やはり「支那人の同化力」は一向に衰える気配をみせてはいない。いや1978年末の鄧小平の対外開放を機に、一気に激化したというべきだろう。
ところで「日本流の仁義道德を以て規矩とすれば」と「日本流の仁義道德」を持ち出すが、こういった見方が間違いである。毛沢東、鄧小平、江澤民、胡錦濤、習近平のみならず蔣介石、いやいや孫文・・・彼らに「日本流の仁義道德」を求める方が絶対にムリというものだ。「保身、生存の道にかけては、非常に優越」である彼らに「日本流の仁義道德」が「適合する」わけがないのだから。
振り返ってみるに、「日本流の仁義道德を以て規矩と」して中国と中国人に対してきたことが、そもそも日本の大失敗の原因だったのだ。やはり日本列島の内側で育まれ極められたからこその「日本流の仁義道德」であり、だから日本独特の繊細・珠玉で芸術品のような「日本流の仁義道德」で他を推し量ることは最初からムリなのである。他国の振る舞いに「日本流の仁義道德」を当て嵌めて判断することだけは過去・現在・将来を問わず、やはり断固として避けるべきだ。
『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』の末尾に「遊支餘論(日支協戮の急務)」の一章を置き、渡邊は「家を出でゝより家に歸るまで四十六日」、「七千哩」に及んだ旅を閉じる。言論人としての当時の渡邊の影響力がどの程度のものだったのかは不明だが、「遊支餘論(日支協戮の急務)」を大阪毎日新聞で東京支局長を経て編集主幹まで務めた新聞人による現地取材を踏まえての調査報道と見做すなら、ここから当時の日本における言論界の傾向の一端を垣間見ることができるのではないか。
冒頭、渡邊は「雄大なるかな山河」「廣遠なるかな田野」「眞に支那は大陸的に美き國なり、觸目總て佳ならざるなし」と、第1印象を記す。次いで「眞に支那は老大國なり」と「余の支那における第二の印象」を挙げ、3番目の印象として「唯骨董國、敗殘國、衰亡國」「憐れむべきの極」と綴った。
「石骨巌々、樹木絶無」「荒寥落寞、世の終りに逢へるが如」き自然を目にして、「支那人果して斫伐に勇にして植林に怯に、而して罪を風水に歸せるの失なきか」と訝る。
人々の住む地域の「小流細河」には水がない。水源の遠い大河である「黃河、楊子江、其他の河流、往々洪水氾濫、田園の荒廢、人畜の死傷、無算なる慘事を演出す」。それもまた、「支那人の山林に意を致さゞると共に、治水に怠れる結果」ということになるのだ。
上海、北京、漢口などの大都市や外国に開けた港湾都市の道路は「坦々として砥石の如し」だが、「是等は多く外人と交渉あり、外人の力の及ぶ所の範圍のみ」である。《QED》