――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(12)渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)

【知道中国 1900回】                       一九・五・念六

――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(12)

渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)

 

 じつは済南は、19世紀末から20世紀初頭にかけて山東省から北京一帯を大混乱に陥れた過激な排外運動団体である義和団運動が起こった土地でもあった。「曾て『扶清滅洋』の拳匪の起こりたる本源地たるだけであり、頑冥固陋の民多きが如く、辨髪を蓄ふる少なから」ず、「固陋の風を脱せ」ず、「往々にして排外熱、殊に排日熱の中心が、學生にあるが如き、蓋し怪しむべからざるなり」。加えて「苦力の林間地上に安臥し、乞食的兒童の上下全く裸して一物も纏はず、停車塲附近のアカシヤ樹林中に出没せるの少なからざる、亦以て蠻野的濟南の一端を暗示するものにあらざるか」と、済南の概観を綴る。

 渡邊の訪問から8年後の1928(昭和3)年5月、?介石麾下の国民革命軍によって日本人居留民が襲撃された済南事件が起こっている。渡邊は「蠻野的濟南」と形容したが、やはり済南は「蠻野的」なままであったということか。

 済南から泰山に上り、曲阜に足を延ばす。その曲阜の孔子廟でのことだ。警護の兵士から眼鏡を外せと命令された。それというのも「眼鏡越しに聖塋を拝するは不敬なり」だからだ。清末民初の最高権力者であった袁世凱ですら眼鏡を外した。「況んや異邦觀光の人をや」。命令を聞かないなら拝観させないと、「意氣頗る昂然たり」。

 かくて彼ら兵士は職務に忠実ではあるが「唯其理に暗くして形式に泥み禮の眞意を解せざるを惜しむべし」。確かに「其職に忠なるものといふべし」ではあるが「亦蓋し支那上下の通弊なり」と、渡邊は呆れ果てる。

 済南における日本人社会を観察し、その問題点を挙げる。そのうちの重要と思われる指摘をいくつか記しておきたい。

 「在濟南領事の在留日本人の意志を代表する、甚だ不十分なり」。

 「日本官邊のプロパガンダは拙劣にして無力なり」。

 「對外方針の文武二途に出でゝ相一致せざるは甚だ不可なり」。

 「日本人の支那に來らんとする、中學程度までは内地において�育を受くるを必要とす」。そうしないと「劣質、無精神の輕薄、不良、浮浪的日本國民をして支那に充滿せしむ事とな」るだけでなく、「終に支那人以下の國家思想なきものとなり了」ってしまう。

 済南を後にして山東鉄路で青島へ。この路線は「滿鐵同樣日本の經營にかゝる」だけに各駅では日本兵が警備に当たっている。その点が「支那人をして好感をなさしめざる所以」ではあるが、「支那人の之によりて安寧を保護せられ、日本人の發展と融和して戻るなきの助勢を得る、亦少なからざるべし」。

 「唯其獨逸營の後を受けたるより、其軍司令部、軍司令官々邸等の日本人の相應しからざる堂々たる嫌ひあるのみ」の青島では、「青島神社(若鶴山の中腹に在り明治天皇を奉祀し櫻を植う、神域七千餘坪)」に詣で、静岡町、舞鶴町などを歩いた。

 青島では済南日報社長から「大いに支那談を聽」き「其大綱を掲」げている。重要と思われるものを列記しておく。

 「支那が國際的管理の下に立つは止むを得ざる運命なるべし」。

 「日本が獨力にて支那の事を世話するは難事たるべし、日本の財政も、日本の人物も、國際的關係も共に之を許さゞるべし」。

 「然れども、日本の支那に對する、滿、蒙との特別關係を失はず、此根據的勢圏を確保すること忘るべからず」。

 「支那人の同化力は今尚舊によりて衰へず、歐米人に對しても亦然り、從つて假令英米諸國が楊子江一帶に根據を作るとするも憂ふるに足らず」。《QED》


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