――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(11)
渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)
上海では、「?々として支那談をな」した東亜同文書院教授兼『上海週報』社長の西本省三の話を纏めている。やや長いが引用したい。それというのも、その後の日本の大陸政策を振り返ってみると、どうやら西本の考えが我が国要路の“支那観”の最大公約数のように思えるからだ。
「支那の統一難、支那人の消極性、支那人の自主的性能缺乏、支那の學者の實行力を缺き、議論を樂しみ新説を弄し、シカも蠶の繭を作るが如く其論説の裡に閉死するのみ、事に臨んで保身以外何物のなき事、從來強大と稱せられたる同化力も文明の進める優越人種に對しては極めて微弱にして、從つて其同化力は減縮しつゝある事、共同管理は必至の運命なるべき事、シカも形勢萬變、現在の舞臺に立てる役者の一掃し去らるゝ時機來るべき事、支那に對しては常に威嚴を失ふの擧に出づるべからざる事、排日必ずしも恐るゝに足らざる事、支那人を治むるは道(覇道にあらず王道)を以てすべき事」――
これを極論するなら、どうしようもない「支那に對しては常に威嚴」を以て臨み、「王道」によって治めるに如かず、ということになるのだろう。それはそれとして西本の考えを全面否定するつもりもない。だが、いったい西本――というより西本のような考えの持ち主たちは、彼らの向こう側に大陸における熾烈な利権争いを繰り広げる“海千山千”の欧米列強がいることに思いを致さなかったのだろうか。
「支那人を治むる」には「覇道にあらず王道」を以て臨めという。この考えを否定する心算はない。だが、いったい「王道」は何を指すのか。誰もが賛成するだろうが、やはり誰もが具体的内容を指し示すことはできないはずだ。いや、と孔孟の道などを持ち出されても困惑するしかない。加えるに「從來強大と稱せられたる同化力も文明の進める優越人種に對しては極めて微弱にして、從つて其同化力は減縮しつゝある事」という考えに至っては、誤りというべきだろう。
こういった一知半解式の考えを得々と開陳する東亜同文書院教授、その主張を「興味を以て傾聽せる」言論人――中国問題を日中関係という側面でしか捉えられないことに、なぜ気づかなかったのか。大正末年の躓きを、100年後の我われは克服しえたのだろうか。
杭州の日本領事館に清野領事を表敬する。
同地に「日本專管居留地を有すと雖も、居留者僅々四十人許、領事々務の閑なる、以て知るべし。以て風流領事をして滿足せしむべく、以て勤勉領事をして研究創作に從事すべし」。どうせ暇だから現地を精一杯楽しむか、徹底的に研究せよ、ということなってしまう。だが清野領事は、そのどちらでもなかった。「遠謫者たるの感を懷くが如く、三年も斯くの如き地に置かるゝを喜ば」ないというのだから、やはり税金をドブに捨てているようなものであり、どう考えてもバチ当たりの任務放棄外交官と言うしかない。だが、はたして現在の我が在外公館でも“清野領事の後輩”が高禄を食んではいないだろうか。
蘇州など江南の景勝地を歩いた後に北上し、山東省の済南に向かう。
済南では「米英人共同經營の齊魯大學の付屬たる齊魯病院」の隣の広智院へ。ここは「英國宣�師の經營せる一種の博物館」であり、陳列品は「人智開發上貢獻するところ少なからず」。そこで渡邊は、「英米人等に支那に對する獻身的努力の大且巧なるに敬服せざるを得ざりき」と記す。
もちろん「英米人等に支那に對する獻身的努力」が現地人を“手籠め”にし、本国の利権獲得のためであることは明らかだろう。それにしても、「遠謫者たるの感を懷くが如く、三年も斯くの如き地に置かるゝを喜ば」ない清野領事の無為無策とは余りにも違う。《QED》