――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(8)
渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)
撫順炭鉱の苦力宿泊所を覗く。彼らは「其得る所の賃金は多く之を賭博に費やす」のであった。彼らを取り纏める「把頭」と呼ばれる中国人の人足頭は妻帯し、「權力と高給とによりて、猶人らしき生活を樂み得べしと雖も」、苦力には賭博程度の楽しみしかない。
「上半身裸體の炭塵に汚れたる儘」で「頭を衝き合ひつゝ、嚴禁せる賭博に耽る」。賭博を発見した「年少日本人監督のために棍棒を以て叱咤打擲せらるゝも怒らず、驚き且笑つつて蜘蛛の子を散らすが如く逃げ去る」のであった。そんな有様を目にした渡邊は、「窃に惻隠の情を催さゞるを得ず。其生活の寧ろ動物的にして、彼等の自覺の百年河清を俟つよりも望み難かるべし」と綴る。
こういう場面に出くわした際、おそらく欧米列強の支配者は「窃に惻隠の情を催」すことなく、躊躇せず断固として厳罰で臨んだはず。殖民地の被支配者に「窃に惻隠の情を催」していた日には殖民地経営なんぞできない、と嘯きながら。きっと、そうに違いない。
撫順から奉天を経由して南下し、山海関を越えて北京へ。
北京では初期の陸軍支那通を代表する青木宣純中将(安政6=1859年~大正13=1924年)に会っている。因みに、青木が北京政府応聘の軍事顧問として黎元洪総統の近くにあったのは1917(大正6)年1月から1923(同12)年1月までである。
「温容一野翁の如き風貌」の青木によれば、「支那の戰爭と稱するもの、聲容を以てし、文書を以てし、電報を以てし、必ず殺傷相當るが如き激烈なる鬪爭に出づるにあらざるをや、風雲の動くところ安心すべからず」と説く。話が佳境に入る直前、客人が来たということで渡邊は青木の許を辞去している。これから青木が何を話そうとしたのか。大いに興味をそそられるところだが、青木や坂西利八郎以下の陸軍支那通、それに大陸浪人の功罪については、いずれ詳細に論ずることにして、今は渡邊の旅を先に進みたい。
渡邊は明朝歴代皇帝を葬る十三陵、居庸関、弾琴峡、長城(八達嶺)などを回るが、「初めて支那人の盗癖の油斷ならざる」を知る一方、「支那人の衣服纏ふの嚴にして、婦人は全く皮膚を露出せず、男子は上半身を露出すると雖も、斷じて腰部以下を示さず、少年童女と雖も亦相同じく、女兒は決して胸背並びに乳房を暴露せず、村落の間亦此習慣を存せる」を知ったと記す。
さらに足を中国本部と外蒙との接点に位置する張家口まで伸ばす。「人口六萬五千を有する北京以北唯一の商業地」とはいうものの、やはり旅館には閉口したらしい。
「當惑したるは便所の設備の不完全なり。大便所は外壁ありと雖も、入口に戸あるにあらず、各箇の間に隔壁障陛屏あるにあらず、諸人偶然同時に會せんか、相並んで脚を接して相見つゝ便せざるべからざるの奇劇を演出すべし。從つて余等夜中若くは昩旦人なき時を窺つて之を爲すの道を取れり」。
「人口六萬五千を有する北京以北唯一の商業地」でこれだから、他は押して知るべし。とはいえ、これがスタンダードだから我慢、ガマン、我慢、ガマン、我慢・・・である。
張家口郊外の農村を歩き「鮮人の深入此の地方に及べるか」と綴る。出稼ぎ農民か。入植者か。彼らの進出と日本の影響力拡大は重なっているのか。彼らは独自に黄塵万丈の地まで進出したのか。確かに「木は動かせば死ぬが、ヒトは動かすと活き活きする」ものだ。
張家口から北京に戻り故宮内の武英殿で「清朝鐘愛の珍寶」を見る。「其輸送の間、多くの僞物と交換せられ」て、最後は権勢家に私蔵されてしまう。彼らこそ「獨り國寶を私するのみならず、又國家國民を私して其存亡消長を雲烟に附するの徒なり。而して民國此等の徒に富む、民國の衰亡、蓋し謂あるなり」。ニセ国宝、ニセ国家にニセ国民・・・?《QED》