――「彼等の行動は生意氣の一語に盡きる」――石井(3)
石井柏亭『繪の旅 朝鮮支那の巻』(日本評論社出版部 大正10年)
石井は上海で続く排日運動に興味を持ったのだろう。そこで事細かに綴っている。
「排日に騒ぎが靜まつたら何處かへ旅立たうと思つて居るうちに、それは却つて段々にひどくなつて行つた。工務局から傳單が禁止されたら、今度はそれに代ゆるに『堅持到底抵制日貨』等の文字を大畫きした白旗を以てされた」。フランス租界やイギリス租界の「目抜きの町筋の兩側の軒から之等の白旗が翻る下を通るのは、日本人にとつて決していゝ氣持ちではなかつた」。誰か知らぬが「抵制日貨」と彫った大きな版を作って、「それを電柱と云はず壁と云はず手當り次第に捺して行く」。しかも夜明け前の仕業だから、捕まえようがない。治安不安に商店は店を閉めだす。学生に強迫されてのようだが、学生は自発的行為だと嘯くばかり。そのうえ尻馬に乗った女学生までが排日運動に乗り出す始末だ。
上海市中にあるいくつかの市場も閉鎖され、「人は食糧に就ての心配をし始めた」。「支那人は困りながらも何處かで何かしらを手にいれる」が、在留日本人はお手上げ状態だ。
閉まった店の表戸は排日ビラで埋め尽くされる。店を休むから、不逞の輩が町中に溢れ出す。治安は悪化するばかり。「罷業は苦力階級にも及ん」だ結果、港の機能はマヒ状態で、鉄道は動かない。
1919年の6月も半ばになると、北京では「曹、章、陸と云ふやうな所謂親日的官吏が罷められたことによつて、排日運動にも一段落がついた」。そこで交通機関を中心に都市機能も回復しつつあるが、まだ完全に収まったというわけではない。「市場は復舊したが、支那商店の或ものは單に日貨を排斥するに止まらず『日人免進』と云ふ貼札をして日本人に物を賣らぬと云ふ馬鹿げた眞似をして居る」ほどだ。
「日本人が支那服に假装して水道とか食品とかに毒を入れて歩くと云ふ馬鹿々々しい流言が割合に下級民の信ずる處となつて」、日本人のなかには「とんだ危害を被るものも鮮くなくなかつた」。「支那人に怪まれて害を受けたものも仲々に多い」。石井の友人の1人も「少し普通の支那人の相貌と異ふかして、或日車上に在つて群衆に『東洋人』と叫ばれて困つたそうだ」。彼が上海弁で「よく眼を洗って見ろ」と捲し立てると、彼らは笑いながら散っていった。「東洋人」は、時に日本人に対する蔑称となり悪罵・軽蔑の意を含む。
石井は一連の反日騒動を総括して、「日本に居る支那留學生なども多少騒いで居るやうだが、今日も(中略)さかり場の所々に持出した卓に乘つて、生若い學生が熱辯を振つて居るのを見た。傍には某々中學校の國恥講演團と云ふやうな旗を樹てゝあつた。乳臭の學生に何の政治問題が解るのか。彼等の行動は生意氣の一語に盡きる。それは民論でも何でもない」と記している。
「乳臭の學生に何の政治問題が解るのか。彼等の行動は生意氣の一語に盡きる。それは民論でも何でもない」と、石井は切り捨てる・・・さて排日運動は「乳臭の學生」の「生意氣の一語に盡きる」ような行動であり、本当に「民論でも何でもな」かったのか。
ここまできたら、またまた林語堂に登場を願うしかなさそうだ。
「中国人はたっぷりある暇とその暇を潰す楽しみを持っている」と説く彼は、『中国=文化と思想』(講談社学術文庫 1999年)に「充分な余暇さえあれば、中国人は何でも試みる」とし、「蟹を食べ、お茶を飲み、名泉の水を味わい、京劇をうなり」から「叩頭をし、子供を産み、高鼾を立てる」まで全58種類の暇つぶしの方法を挙げているが、その43番目が「日本人を罵倒し」とある。
ならば石井が目にした排日運動は「民論でも何でもな」く、単に「乳臭の學生」による暇つぶしだった・・・としたら「生意氣の一語に盡きる」。確かにフザケタ話だ。《QED》