――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘18)
橘樸「中國の民族道�」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)
話が前後するが、封建王朝が「小さな政府」であった一例を挙げておきたいと思う。
漢代から始まって、隨、唐、宋、元、明、清の各王朝の適当な時期を選んで当時の人口と中央官僚の数を比較してみると、全人口に対して官僚が最も少なかったのが清代(1796年)で、2億9千万人の全人口に対し官僚は2.2万人に過ぎなかった。
ここで参考までに最近の日本における公務員の数を見ておくと、たとえば『公務員数の国際比較に関する調査 報告書』(野村総研 平成11年11月)に依れば、日本の全人口1.2億人強に対し、国家公務員は160万人強で、人口1千人当たりの官僚数は12.6人になる。一方、東京都の場合(平成31年)、三多摩・島嶼部を含め人口13,944,856人に対し都庁職員は38,856人である。160万人強の国家公務員には中央官庁(行政機関・議会・司法)以外に、国防省(自衛隊員)、公団公社、政府系企業などが含まれているから、清朝の例と直接比較しても参考にはならないだろう。これに対し東京都の場合は学校職員、警視庁、東京消防庁が除かれているから、清朝と比較し易いと思う。
清朝の人口は東京都の約21倍だ。東京都の基準で計算すれば清朝の官僚は46.2万人(=2.2万人×21)が必要で、清朝の基準でなら東京都庁職員は1850人(=38,856人÷21)に止まる。都庁職員が僅かの1850人では東、美濃部、鈴木、青島、石原、猪瀬、舛添、小池と思い出すままに並べとところで、誰が都知事であったとしても都政の維持は不可能だ。
これを言い換えるなら、飽くまでも計算上ではあるが、清朝の官僚は1人で1.3万人強を管轄していたことになる。ということは、例えば人口1.3万人の地方自治体に首長が1人。もちろん役場職員はゼロという計算だ。これでは超有能な行政マンに万能の行政権を与えたとしても、地方行政など成り立つわけがない。
だが、それでも清朝は動いていた。では官僚(上)と民衆(下)の間には、どのような仕組みが働いていたのか。ここで橘に戻るが、彼は次のように説いた。
「偉大なる專制國家」とはいえ、その権力は「知縣衙門に至りて止ま」るしかないからこそ、「縣以下の行政機關は之を人民の自營に委ねる外ないのである」。一方、民衆の間に「鞏固な家族及宗族團體があつて、それが單位となつて村落自治體を組織する」。こうすることで「貧弱な知縣衙門の編成を以てしても大體に於て地方の治安を維持する上に不便を感ぜぬ事になる」。「茲に官僚政治と民衆生活の隔離と云ふ中國特有の政治現象の發生した契機が潛んで居る」わけだ。
なにやら持って回った説明だが、要するに歴代の王朝権力は民衆側の「鞏固な家族及宗族團體」を軸とする「村落自治體」と妥協することで維持されてきた。これが歴代中華帝国のカラクリである。「偉大なる專制國家」とは言うものの、「鞏固な家族及宗族團體」を軸とする「村落自治體」にソッポを向かれたら、その段階で崩壊への道を辿るしかない。
どうやら橘は次に見えるように、「鞏固な家族及宗族團體」を軸とする「村落自治體」を支えていたカラクリの一端を「中國の民族道�」の柱と捉えていたことになる。
「即ち中國社會組織の根柢をなすところの家族、宗族及村落と云ふ三段の結社は、血縁及地縁の自然的紐帯に依つて結び付けられて居る許りでなく、又社交本能と經濟的欲望の滿足とか云つた種類の平和な關係に依つて結び付けられて居る許りでもなく、前記の結社が一旦成立した上は、それの存在及利�を侵略者に對して擁護する爲に、深刻なる團結意識の發生を促すものであります」。
ここに見える「侵略者」には、民衆にとっての王朝権力(=「官僚及其の手先」)、「地方豪族及土匪の如き者のあれば天災地變と云つた樣もある」。まさに「侵略者」だらけ。《QED》