――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘26)橘樸「中國の民族道�」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)

【知道中国 2065回】                       二〇・四・念二

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘26)

橘樸「中國の民族道�」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)

こうして地主、いわば「族長・家長」を打倒した後、農民はどのように振る舞ったのか。

 昭和8年に東京に留学中の四川省の地主の息子と結婚したことで、共産党による「土地改革」を体験した福地いまが綴った『私は中国の地主だった』(岩波書店 昭和29年)に、こんな記述が見られる。

 「(地主から取りあげた)土地の分配が終わると、家屋の分配をして、その結果無産階級は突然有産階級に変わって来ます。〔中略〕衣裳箱、テーブル、椅子、鍋、釜、湯沸しから花瓶まで分配されて、大はしゃぎです。〔中略〕家族の多い農民たちは急に大金持ちになりました。また農民以外の無産者も農民と同じ待遇でしたので、みんなは大喜びで毛主席を神様のようにあがめて毛主席と共産主義を信仰し始めました。たしかに一生涯祈っても与えられなかった財宝倉庫を、毛主席から頂いたわけで、他の宗教などきれいさっぱりと投げ出しました。神様なんてどこにいましょう。起きるにも寝るにも毛主席です」。

 どうやら土地を分け与えたことで、毛沢東は農民にとってのカミサマになったらしい。

 その後、1958年の大躍進政策を強行した際、毛沢東は全国を人民公社化する過程で農民から土地を取り上げ、さらには無謀極まる農産物の増産計画を押し付けることで農村を疲弊させ、最大限で4500万人とされる餓死者を生んだのである。だが、農民は毛沢東に従順だった。それというのも、たとえ一瞬の幻想であったにせよ、農民は毛沢東によって地主の軛から逃れ、自らの土地を持つという誇りを持つことが出来たからに違いない。

 「彼が自分たちの誇りを回復させてくれたからです。国民に尊厳を取り戻させてくれる者は、国民に多くを受け入れさせることができます。国民に数々の犠牲と不自由を強いることもできれば、専制的に振る舞うことすらできます。それでも人々は耳を傾け、彼を擁護し、彼に従うのです。永遠にではありませんが、長きにわたって従うのです」(アミン・アマルーフ『世界の混乱』筑摩書房 2019年)。

 ここにみえる「彼」はオスマン王朝に引導を渡し、政教分離を推し進め、厳格な世俗主義を採用し、トルコの近代化に絶対的な役割を果たし、「国父」と崇められるケマル・パシャである。

 ケマル・パシャと同じように毛沢東も「国民に数々の犠牲と不自由を強い」たし、「専制的に振る舞」った。「それでも人々は耳を傾け、彼を擁護し、彼に従」った。それというのも共に「国民に尊厳を取り戻させ」たからだ。トルコ人は「永遠にではありませんが、長きにわたって従」った。だが中国人はトルコ人のように従順ではなかった・・・やはり。

 毛沢東が推し進めた文化大革命の熱狂の中ですら、すでに農村では計画経済は放棄されていた。農民は毛沢東に愛想尽かしをしていた・・・らしい。人民公社が管理する共有財産は分配され、土地を分け合い、闇工場が動き出し、闇市場が開かれ、伝統的な農村の日常が動き出していた。中国の国民は毛沢東によって上から強制された官製の「自力更生」に従うフリをしながら、じつは密かに“自前”の「自力更生」を推し進めていたのだ。

「上に政策あれば下に対策あり」。上には上の「自力更生」があれば、下には下の「自力更生」あり。密やかな生き残り策――これぞ橘が説いた「久しい間の民族的鍛錬」の精華とも言うべきだろう。

 こうして草の根レベルから共産党政権が握る経済的支配力を掘り崩し、自らの手に取り戻す試みをみせていた。この厳然たる事実を認めざるを得ず、草の根レベルと妥協した結果が、�小平による1982年の人民公社解体に繋がったに違いない。人民公社から解き放たれたことで草の根レベルの才覚が縦横に発揮され、中国は動き出した・・・のか。《QED》


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