――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘27)橘樸「中國の民族道�」(大正14年/『橘樸著作集 第一巻』勁草書房 昭和41年)

【知道中国 2066回】                       二〇・四・念四

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘27)

橘樸「中國の民族道�」(大正14年/『橘樸著作集 第一巻』勁草書房 昭和41年)

橘の「中國の民族道�」を論じていたら、いつの間にか�小平の開放を突き動かした草の根レベルの「自力更生」に行き着いてしまった。

この辺で橘に戻ることにするが、「中國人の民族道�」の最終部分で、「面子を尊重する事」「神の攝理に對する豫想から道�律を守る事」「没法子と云ふ不思議な心意轉換法を體得して居る事」は、彼らが自らの「道�形式から直接に錬成された三大特色である」と語る。

そして「日本人はよく中國人を臆病であるとか恥を知らないとか」口にするが、「少なくとも面子に關する限りに於ては中國人程勇敢で且つ敏感な人種は他に類例を求むる事が出來ぬ」と説き、面子に対する「強い執着が民族道�の維持に大いに貢獻している事は論ずる迄もありますまい」と、やけに「面子」にこだわる。

だが「中國の民族道�」を考えるに当たって、面子に過度に重きを置く必要があるのだろうか。たしかに1890年の初版出版以来、「中国人の性格、民族性を驚くべき観察眼で描き出した古典的名著」とされる『Chinese Characteristics』(最新邦訳は『中国人的性格』中央公論新社 2015年)で著者のアーサー・H・スミスは、巻頭に「第一章 面子」を置き、いの一番に面子を論じてはいる。だが、彼は橘とは違って中国人の持つ天性の演劇性に引き寄せて考える。

「我々が〈面子〉の意味するところをいささかでも理解するためには、まず、中国という人種の持が天性として強い演劇性を持っている、という事実を考慮しなければならない。演劇は、彼らの唯一の国民的娯楽と言ってもよいものであって、イギリス人のスポーツに対する情熱やスペイン人の闘牛に対する情熱のように、中国人は演劇に情熱を注ぐのだ。ほんの少し挑発するだけで、どんな中国人もまるで俳優のように自らの演劇の世界に入り込んでしまう。〔中略〕ここで明確に理解しておくべきことは、この演技は全て現実とは何の関係も無いということだ。大切なのは事実ではなく、常に形式なのだ」。

ここに示された「演劇」を「芝居」に2文字に置き換えた方は、より適切な雰囲気が醸し出せるように思うが、それはさて置き、「大切なのは事実ではなく、常に形式なのだ」と綴るところから判断して、どうやらアーサー・H・スミスは中国においては形式が実態であることが分かっていたようだ。

アーサー・H・スミスに依れば面子を保つために大袈裟に振る舞い、「適時に適切な方法で立派な口上を述べる」。かくて面子を失うとは、面子を保つための芝居に失敗し、芝居が無視され、あるいは芝居が挫折した場合ということになる。

1845年にアメリカのコネチカット州に生まれた彼はアメリカ最古の海外伝道組織であるアメリカン・ボードの一員として1872年に派遣され、山東省を中心に伝道・災害救済・医療・慈善・教育などの活動を行い、1905年からは北京東郊の通州で執筆活度を続け、1926年に帰国している。彼の中国滞在は、清末から辛亥革命を経て中華民国の混乱期に及ぶ激動の時代の半世紀以上に及んでいる。

長期滞在の経験からだろうか。彼は「これだけは付け加えておかなければなるまい」と付言し、「〈面子〉をどのように扱い、〈面子〉をどのように保つかということは、西洋人には全く理解できない。西洋人はいつも、それが芝居的要素を持っていることを忘れ、見当違いの領域に迷い込んでしまうからだ」と、西洋人への注意を喚起している。

これに従うなら、「それが芝居的要素を持っていることを忘れ、見当違いの領域に迷い込んでしま」ったからこそ、橘は面子を大袈裟に見立ててしまったのではなかろうか。《QED》


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