――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘19)橘樸「中國の民族道�」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)

【知道中国 2058回】                       二〇・四・初八

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘19)

橘樸「中國の民族道�」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)

橘は「中國近世史に現れた社會組織」の「核心をなすものは家族及宗族主義であり、此の制度を維持する爲の道�を『孝』と稱へる」。そこで「孝なる觀念」を、「日本の其れの樣に單純なものではなく」、両親や祖先に対する義務といったレベルを遥かに超えて、「家族及宗族の團結を出來得る限り強く且つ大きくさせるという職分を擔つて居る」と見做す。だが橘は勘違いしている。日本における孝は「單純」ではなく、じつに純粋なのだ。

さらに「中國民族の形作つて居る全體社會は、家族なる小さい部分社會を其の成立の根據とする」。「此の單位が血縁に沿ふて結合したものが所謂宗族であ」り、「宗族は祖廟を其れの精神的中心として結束し、全體社會に對して第二の單位であると同時に、一箇又は數箇の宗族が結びついて村落自治體を形作る」。これが「農村を主とした社會組織」である。

かくして「宋以來即ち約一千年以來」、このような「社會生活を營み、此の特殊な生活の中で彼等の民族性や民族道�の鍛錬されて居る」ことになる。

橘は「上海其他二三のものを除いた外は『村落の共同體』に過ぎない」とするが、「上海其他二三」の都市も一面では欧米の租界が発展したものであり、実質的には村落組織の延長でしかない。これを言い換えるなら、封建王朝も含め中国とは実質的には「村落の共同體」が集まったものに過ぎない。これが中国の本質だ。

ならば「村落の共同體」を掌握した者が、実質的には中国を押さえていることになる。これを敷衍するなら「村落の共同體」が安定していさえすれば、安定した中国が維持できる、ということだろう。王朝の交代を「易姓革命」――(皇帝の)姓を易(か)え(天の)命を革(あらた)める――と呼ぶ所以は、ここにある。

始皇帝の秦以来、歴代封建王朝の皇帝一族は必ずしも漢族ではなかった。始皇帝にしても唐を樹立した李一族にしても漢族でなさそうだ。元王朝はモンゴル族であり、清王朝は皇帝は愛新覚羅(アイシンギョロ)姓の満州族だろう。にもかかわらず、異民族王朝とはいわず、正統中国王朝と見做す。おかしな話だが、じつは頂点にどのような民族が坐ろうと、漢代で「国教」と定められた儒教を皇帝が信奉する一方、その王朝権力を安定した「村落の共同體」が支持しさえすれば中国となってしまう。つまり中国とは国家ではなく統治のシステムであり、儒教教義を介在させた皇帝と「村落の共同體」との妥協の産物――産物という表現に語弊があるなら、権力が生み出した特殊な芸術品――ではなかろうか。

橘は「(中国という)特殊的社會環境の中で、中國民族は之に順應する樣な特殊な民族道�を産み出した」。「中國民族道�の實質部分と云ふのは、孝悌忠信と云つた樣な各人行爲の規範」であり、「形式的部分」の「第一は所謂面子であり、第二は通俗道�の�へる應報觀であります」とする。

ここまでの橘の考えを整理してみると、�中国は「村落の共同體」の集合である。�「村落の共同體」は「孝なる觀念」によって支えられた「宗族が結びついて村落自治體」によって構成されている。�このような社会で行われている「中國民族道�の實質部分」は「孝悌忠信と云つた樣な各人行爲の規範」であり、「形式的部分」は「面子」と「通俗道�の�へる應報觀」――となるだろう。

橘は「中國人は久しい間の民族的鍛錬を積んで遂に今日の如き特殊な民族性を作り出す事が出來たものと見えます」とする。「久しい間の民族的鍛錬」とは言い得て妙だ。1949年の建国から新型コロナウイルスの現在までの70年ほど振り返ってみても、彼らはジェットコースター的変動を超えた“疾風怒濤×n乗”とでも表現できそうな社会の激変を生き抜いてきた。「久しい間の民族的鍛錬」とは、たしかに言い得て妙ではある・・・が。《QED》


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