――「彼等の中心は正義でもなく、皇室でもない、只自己本位でゐる」服部(9/16)服部源次郎『一商人の支那の旅』(東光會 大正14年)

【知道中国 2027回】                       二〇・二・初六

――「彼等の中心は正義でもなく、皇室でもない、只自己本位でゐる」服部(9/16)

服部源次郎『一商人の支那の旅』(東光會 大正14年)

ところで手許に置いてある高校世界教科書『詳説 世界史 B』(山川出版社 2006年)では、最晩年の孫文の動向は次のように綴られている。

「(19)24年国民党を改組して党組織の近代化をはかるとともに,共産党員が個人の資格で国民党に入党することを認めた(第1次国共合作)。彼はまた,『連ソ・容共・扶助工農』をかかげて,打倒軍閥・帝国主義の路線を打ち出した。孫文は25年に病死したが,同年に上海の日本人経営の紡績工場での労働争議をきっかけとしてひろがった五・三〇運動は,中国における反帝国主義の高揚を示すものであった」

「五・三〇運動」について、『世界史 B 用語集』(全国歴史教育研究協議会 山川出版社 2012年)は、次のように解説する。重畳気味だが、全文を引用しておく。

「1925年5月30日,上海でおこった反帝国主義運動。同年2月,上海の日本人経営工場で中国人労働者が待遇改善などを要求してストライキをおこしたのを機に闘争が激化し,5月30日には上海で労働者が射殺される事件に発展して抗議運動がたかまった。5月30日には学生・労働者のデモにイギリス警官隊が発砲し,多数の死傷者が出て,全国的反帝国主義闘争となった。この運動の中では労働者階級の活躍も目立ち,その後の民族運動に広がりと自信をつけることとなった」

ここに示された「上海の日本人経営の紡績工場」「上海の日本人経営工場」が、明治42(1909)年に大阪の綿業者たちによって創業された内外綿株式会社である。

服部が同社を訪問したのは大正14(1925)年の4月29日というから、労働争議の真っ最中になるわけだ。服部は自らが目にした労働争議に関連し、「職工のため社宅二千戸を作り、立派な市街となつて居る、生徒百名を収容する日本人學校、支那生徒三百人を�養する學校及幼稚園は勿論、公園、倶樂部に至るまで設備の行届いて居るには驚いた、本年二月十日より二十七日迄十八日間職工罷業が起つた、是等は皆外部よりの煽動にして内部より自發的に起つたものではない、故に直ぐ終熄して仕舞つたのである」と記した。

「支那生徒三百人を�養する學校」は同社の川邨利衛頭取の持論であった「日支両国の親善」に基づいて大正11(1922)年に設立された「水月華童学校(旧称は「水月義務学堂」)」を、また「外部よりの煽動」の「外部」は主に中国共産党を指していると思われる。

『詳説 世界史 B』にしても『世界史 B 用語集』にしても、そこに見える記述が現在の時点における“歴史的事実”いうことになろうが、服部の記述内容とは大きな開きがある。たとえばストライキ(「職工罷業」)を、服部は「外部よりの煽動にして内部より自發的に起つたものではな」く、「直ぐ終熄して仕舞つた」と記す。

教科書と現地を踏んだ服部とのどちらが正しいのか。いま、筆者は“正解”を持ち合わせてはいない。そこで、芦田知絵の博士論文『近代中国における日本企業の労務管理:内外綿株式会社を事例にして』(2014年 東京大学)から、関連する部分を引用しておきたい。

「内外綿は(五・三〇)事件後、労働者の『優遇』例として福利施設を強調したが、日本の政府関係者は、中国人の価値観や文化を理解・配慮した上で、福利施設の設備内容を検討すべきだと指摘した」。「(事件後)中国人労働者との摩擦と譲歩を重ねながら、より現地社会に適応した独自の労務管理が形成されていった」。「こうした『現地化』の過程において、中国人労働者に対する『勤勉』観念の伝播がみられた」。かくして内外綿などの日本企業が進めた労務管理方式は、「同時代だけではなく戦後の中国紡織業にも継承され」た。

日本企業の労務管理によって「中国人労働者に対する『勤勉』観念の伝播がみられた」というのだから、やはり教科書の“通説”は鵜呑みにしてはならないようだ。《QED》


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