――「彼等の中心は正義でもなく、皇室でもない、只自己本位でゐる」服部(10/16)
服部源次郎『一商人の支那の旅』(東光會 大正14年)
「四月三十日、濛氣の朝である」。厦門に向けて上海を発った。広い食堂を占めたのは服部の外に船長、「京都帝國大學敎授、文學博士高瀬武太郎先生」、そして「孫逸仙刎頸の友、二十七年間、支那に浪人生活をしてをる廣東政府の顧問山田純三郎氏」の3人だけだった。
「年は五十位、背のスラリとした色白の好男子、特徴は毛の長い眉である、眉巾は短いが濃く而も悉く直立して、一寸前に突出し、煌々たる眼光は一段の力を添へて居」て、「一見普通の人でないと必ず感ずるのである」と記される山田が、孫文死後の政情を語る。
「國民黨も孫さんが無くなつて統一が執難い、孫さんは實に偉い人であつた。常に國民の自由を尊重し、民權民族民生の三民主義を説かれ、清朝を倒し中華民國を興した開祖である」。「(袁世凱なんて死んだら国民の間から)袁世凱のエの聲もしない。然るに孫さんに至つては却て亡くなつてからの方が重寶がられ、中山先生中山先生と大した人氣だよ、〔中略〕孫さんは支那國民道德の頽廢を嘆かれ、支那を道德的に覺醒するには三千年の歷史のある孔敎に復歸せしめねばならぬと喝破せられ、昨年來孔子敎の宣傳に力を致された」。加えて「東亞民族の將來としては、支那は是非日本と提携してアングロサクソンに對抗せねば噓だと、力説せられて居つた」とのことだ。
だが、その孫文は「日本と提携」することなく、「連ソ・容共・扶助工農」に舵を切った事実を、日本人としてはキモに銘じておくべきだろう。
山田の「談論風發」に接し、「高瀬先生は支那一流の政治家の烟に巻かれ靜聽せられて居たが、日本政府は這麼な民間外交家を、支那各地に養成して居るのかと云ふ疑問の顔付きであつた」そうな。さて山田は日本政府が養成した民間外交家だったのだろうか。やはり日本政府は、「孫逸仙刎頸の友」を十二分に使いこなせなかったに違いない。
当時、台湾海峡では海賊が横行していた。じつは「南支那沿岸は海賊の巣窟で、出帆の時一々海賊の有無を調べるのである」。なかには大砲まで備えた海賊船がみられるが、主たる標的は外国船ではないらしい。
「北方に馬賊が橫行する如く、南支那沿岸には海賊が出没する、其海賊は悉く連絡があるから仕方がない、掠奪が彼等の營業であるから止むを得ぬのである」と、船長が語る。これに応え山田は、「處が海賊に税金さへ拂つたら海賊保險の旗をくれる、其旗さへ樹てゝ行けば怎縻な田舎でもドンドン航海が出來る、而も海賊の連絡があつて保護してくれる」と。そこで服部は「初耳の僕は驚愕と恐怖と混淆して、容易に合點が行かぬのである」。
沖の灯台を眺めながら船長が、「彼處には燈臺守が居る、燈臺守は殆ど英國人であ」り、「其妻君の悉く長崎邊の日本婦人です」。灯台守の妻の仕事は厳しく、「虛榮の盛んな英米婦人は迚ものこと、無氣慨の支那婦人も之に應ずるものはない、そこへ行くと日本の婦人は度胸の据つた偉いものだ」。「支那沿岸より南洋に亘り幾百の燈臺があるが、そこには必ず日本の女が居る、海外發展の第一線に立つて活動して居る日本婦人の努力は大に買つてやるべきである」、と。
船長の話を受けて服部は、「外国の殖民政策の先達は正義と神とを敎ふる學識ある宗敎家である、我國の殖民の第一線は肉の媚を鬻ぐ無自覺の女である、彼は衆民を天國に導き此は世人を地獄に誘ふ、誠に寒心すべき國辱なりと痛嘆する人あり」。だが彼女らも結婚し家庭に入れば「貞操を夫に捧げ苦節の限りを盡す大和撫子となり、各國人の稱讃を博する其雄々しさには、正に一滴の涙なくして可ならんやである」と綴った。
だが「寒心すべき國辱なりと痛嘆する」こともない。歴史を振り返れば「彼」が「世人を地獄に誘」い、「此」が時に「衆民を天國に導」いたことを教えているはずだ。《QED》