――「彼等の中心は正義でもなく、皇室でもない、只自己本位でゐる」服部(13/16)服部源次郎『一商人の支那の旅』(東光會 大正14年)

【知道中国 2031回】                       二〇・二・仲四

――「彼等の中心は正義でもなく、皇室でもない、只自己本位でゐる」服部(13/16)

服部源次郎『一商人の支那の旅』(東光會 大正14年)

 やがて長旅も終わりに近づく。全国を震撼させた五・三〇事件発生から僅か3日後の1925年6月3日、南京に到着した。接岸から程なくして船長が「上海に暴徒起り戒嚴令が布かれた、南京では學生の示威運動が今日行はれ人心恟々である」と告げる。そこで甲板に出ると目に飛び込んできたのは「大砲のやうなものが數門」だった。「街路の彼方此方に三四十人づゞが群がり何かザワザワして緊張の氣が漲つてをる」。

 翌日の上海。「各埠頭は苦力の罷業で至つて淋しい」。「各銀行の入口には五六名の兵士が劍突きで警護してをる、武装した英兵が自動車で駛走して行く、道行く人は殆ど絶へ、時々來る電車も乘客僅か二三人そして硝子窓は悉く毀はされてある、嗟!つねに雜踏を極む遉のバンドも、今日は寂として靜かである、一番安全地帶の居留地も支那の商店は悉く戸を閉ぢ厭な宣傳ビラが貼つてあるのみである」。

 「寂として靜かである」のは、「各國の陸戰隊が續々上陸して警戒してをるからでもあ」り、「暴徒は漸次終熄するであらう」。だが「同盟罷業はゼネラルストライキの形式となり倍々結束して來るらしい」。

 危険が迫っている。「支那最後の調査を上海にて一週間滯留し『支那の旅』の結論を作らんとしたが、不幸寶の山に入り乍ら寶を得ず、上海動亂に禍せられ無念ながら空手歸鮮の餘儀なきに至つた」。

 明けて6月6日早朝、日本領事館手配の特別ランチへ。「ランチの傍には帝國軍艦安宅が巨?を�たへて武威を張つてをる、各國の軍艦數隻も武装して江上を壓してをる」。「各等滿員の盛況」である長崎丸に乗船し、長崎を経由して6月12日、「いよいよ憧れの釜山に歸つたのである、嬉しくて堪らぬ、種々の感慨がこみ上げて來る」。

 五・三〇事件に遭遇するという貴重な体験をした服部は、『一商人の支那の旅』の末尾に「附録 支那問題の歸趨」と題し旅を総括した。

 冒頭の「支那の社會」を「賄賂の盛んな社會である」と切り出す。大総統も賄賂で買える。「數百萬元の賄賂を貪つて」敵方に寝返った軍閥の「馮玉祥は中國人の讃めものである」。国有鉄道に貨物を積むのも、警官に対するにも、はては裁判であっても、「一も賄賂、二も賄賂、賄賂が無くては夜の明けぬ處である」。

 次いで「支那の社會は盗匪の跳梁に委せてある」。全土で隈なく「馬賊土匪は常に出没し、流屬狼匪は掠奪を恣にす、而して政府も督軍も我關せず焉と云ふ風である」。

 最後に「支那の社會は淫蕩不潔を極めてをる」と。「淫風」「邪劇」「猥宴」「狂態」の文字が並び、さらに「不潔不快の限りを盡して更に革めんとせず、却て糞中の虫は臭きを知らずと謳ふて居る」とも。「糞中の虫は臭きを知らず」とは、蓋し至言だ。

 「支那の�育」については、元来が「士の�育で、庶民の�育ではない、士の學問即ち政治階級の學問であるから、一般民生とは殆ど交渉がない」。「全國を通じて新聞を讀み得るものは、全人口の二十分の一も無いのである」。

 ところで辛亥革命のイデオローグでもあり、当時の中国を代表する国粋学者であった章炳麟は革命派が日本で発行していた革命理論誌『民報』(第八号/1906年)に「革命の道徳」と題した論文を発表しているが、その中で「いま、中国の人口によって数えるに、文字のあるものは百分の二にも足らず、漢学を修めるのは、そのまた千分の一である」と。

 章炳麟が「文字のあるもの」は「百分の二にも足らず」と記してから20年ほどが過ぎた頃、服部は文字を識る者を「全人口の二十分の一も無い」と。「百分の二」から「二十分の一」――2%から5%へ。20世紀初頭の20年間で中国の識字率は“激増”する。《QED》


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