池百合子・衆議院議員が「日台の絆」と題して講演していただいた。壇上に上がるや、
「永田町の白百合を自称している小池百合子でございます」と切り出し、この掴みで会場
を一瞬にして惹きつけた。
小池議員は、東日本大震災の話から200億円を超える義捐金など台湾からの多大な支援に
ついて、まさに「雪中送炭」だと述べるとともに、台湾で父と慕う李登輝元総統から誕生
会に招待されたことや台湾大地震のときに一緒にヘリコプターで被災地に飛んだことな
ど、さまざまな交流を紹介。李元総統から養子の話をいただいたエピソードも話された。
また、黄昭堂・台湾独立建国聯盟主席が日華平和条約50周年を機に「台湾は台湾という
名の主権国家になるべき」と発表した一文を紹介し、「日本が東アジアで役割を果たすた
めには、台湾は不可欠」と断じた。最後に力強く「李登輝先生の考え方を広め、黄昭堂先
生の思いを受け継ぎ、日本と台湾の絆をさらに強めていくことが一番重要」と締め括られ
た。会場からは大きな拍手が沸き起こった。
実は、講演の中で明らかになったが、小池議員は故黄昭堂氏とは一度も会う機会がなか
ったという。それでも、黄昭堂氏に対する思いには特別のものがあったようだ。
本誌でも何度か紹介したように、台湾独立建国聯盟は黄昭堂氏への各界からの追悼の言
葉を編纂、『黄昭堂追思文集』として前衛出版社から刊行している。
劈頭には李登輝元総統の「黄昭堂永遠站在台湾国」を配し、日本からも安倍晋三・元総
理や西村眞悟・前衆議院議員、櫻井よしこ・国家基本問題研究所理事長、金美齢・評論
家、王明理・台湾独立建国聯盟日本本部委員長、伊藤哲夫・日本政策研究センター代表な
ど19名が寄稿している。その中に小池議員の「黄昭堂先生のご労苦に報いる道」も入って
いる。
小池議員は追悼文で「台湾なくして、日本なし。日本なくして、台湾なし」と断言す
る。下記にご紹介したい。
黄昭堂先生のご労苦に報いる道
小池 百合子(衆議院議員)
台湾独立運動の理論的、実践的指導者であった黄昭堂氏が2011年11月17日、台北市内の
病院で死去された。79歳であった。衷心より哀悼の意を表したい。
昨年12月、黄昭堂先生ゆかりの皆さん多数が出席された「日本李登輝友の会」の会合に
講師としてお招きを受けた際、悲しみを共有できたことは幸いであった。もちろん、東日
本大震災の被災者に台湾から寄せられた200億円もの義捐金についても、お礼を申し上げる
こともできた。
その際にもお話ししたのだが、台湾は私にとって思い出の地である。生まれて初めての
海外旅行先ということもある。父が所属していた大阪青年会議所の児童交流の一環とし
て、姉妹関係を結んでいた台北青年会議所のメンバー宅に一週間、滞在した。中学一年生
であった私にとって忘れ得ぬ経験となった。
烏来での水遊びや陽明山での食事など、様々な活動もさることながら、最も強烈に残っ
た記憶といえば、滞在先の家族とともに出かけた映画館でのことだ。映画鑑賞の前に、観
客全員が起立し、国歌を斉唱したことである。それは戦後教育の下で育った私にとって、
強烈な思い出となった。
その後、アラブの中心地であるエジプトに留学するのだが、エジプトにおける愛国心教
育の現場も、日本人留学生にとっては刺激的であった。大学教育の中でもカウミーヤ(ナ
ショナリズム)という授業があり、エジプト人学生にとっては必修科目となっていた。興
味を抱き、授業に出席してみたが、後に大統領となるナセル氏らの青年将校による1952年
の革命前後の歴史を学ぶ授業であった。
自らの国家を誇らしげに語るエジプト人学生たちを見ていて、羨ましく思ったものだ。
日本での歴史の授業といえば、いかに日本が間違った政策を履行したかを学び、自虐的な
史観にどっぷり浸かるようになるからだ。日教組やマスコミの影響が大きいことは言うま
でもない。
祖国を追われたパレスチナ人の同級生が直面する様々は苦労や、その後、ジャーナリス
トとして1ミリ、1センチの領土を確保するための血と命をかけた闘いなど、平和ボケの日
本では考えられない壮絶な世界があることを身をもって知った。
大正生まれの父は、常に世界の中の国家、日本を考え、幼い子どもたち(兄と私)にも
世界観を語ってくれた。台湾については大阪の経済人とともに独立を支持したことから、
「ペルソナ・ノン。グラ―タ」として、入国を拒否されたことを「名誉だ」と強がってい
たものだ。わが父が黄昭堂氏と接点を持っていたならば、きっとより強烈な運動を展開し
ていたことだろう。
李登輝先生からは何度も直接に学ぶ機会を得ることができたが、生前の黄昭堂先生にお
目にかかることはなかった。台湾の尊厳を確保するために血のにじむような努力をされた
同胞の方々から、たびたび黄昭堂先生への尊敬の念を伺ってはいた。
ところで、今年(平成24年)はサンフランシスコ講和条約の発効からちょうど60周年に
あたる。日本にとっては戦後のGHQによる占領が終結し、主権を回復した記念すべき年とい
うことになる。
戦後、主権や領土への関心が著しく低下し、そのことで中共や韓国、そしてロシア(ソ
連)から主権を脅かす行為を受けていても、国民的な反対運動も盛り上がらないわが国の
現状を憂い、その対策としてサンフランシスコ講和条約が締結された4月28日を休日とする
議員立法を準備した。
自民党の有志議員によるもので、私はその議員連盟の会長代理を務めることとした。会
長は野田毅先生である。
日本の歴史を振り返ると同時に、竹島など、わが国にとっての領土問題、そして台湾の
位置づけを学ぶことで、台湾と日本の関係を強化できればとの思いを込めた。
サンフランシスコ講和条約こそ、台湾の日本からの離脱を決定した根拠だ。戦争の終
了、主権の承認を定めた第1条に続く第2条に領土権の放棄がある。つまり第2項で「日本国
は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定しつつ
も、いかなる国家に割譲するとの規定はない。
一方で、サンフランシスコ条約発効の同日に、日本と中華民国政府は日華平和条約を締
結。サンフランシスコ講和条約の締結の寸前、わずか7時間半前のことである。その間、台
湾割譲を行う判断をすることはなかった。
黄昭堂先生の理論武装は、歴史をひも解き、手繰り寄せ、台湾の人々の自決権を主張、
台湾独立を訴え続けられた。黄昭堂先生とそのご家族が受けた様々な迫害やご苦労を考え
ると、学ぶべきことはあまりにも多い。直接のご薫陶を受けることができなかったことは
残念至極である。
年が明けて、1月14日には立法委員選挙とともに総統選挙が行われ、結果は馬英九総統の
続投が決まった。私も国際監視委員会の一員として結果を日本から見守ったが、台湾の国
民の意思を尊重しつつ、今後4年間の動きを注視し続けたい。
「台湾なくして、日本なし。日本なくして、台湾なし」の思いで、今後も日台共存を進
めることが、黄昭堂先生のご労苦に報いる道と肝に銘じたい。