◆李登輝と蔡英文を結びつけるもの
総統選挙の喧騒が一段落し、世間が徐々に落ち着きを取り戻し始めた1月14日。李登輝事務所主任の携帯に一本の連絡が入った。「本日夕刻、蔡英文総統が李登輝元総統に当選のご報告に伺いたいと希望しています。ついてはお時間の相談をさせてください」。
李登輝は、2012年に蔡英文総統が初めて民進党の総統候補として出馬したときから支持してきた。前年11月に大腸癌の開腹手術を行い、術後は療養のため公の場にまったく出ていなかった李登輝が、投票日前夜の集会に登壇したのだ。南国とはいえ1月の台北の夜は震えが来るほどの寒さだ。しかし、李登輝は家族や秘書団が反対するのを押し切って蔡英文の集会へ駆けつけた。李登輝が絞り出すような声で「私は体調があまり良くない。いつまで台湾のために生きられるか分からない。出来ることも限られてきた。台湾の未来は皆さんに託します!」とひとことずつ紡ぎ出すように話すのを聞いて、涙が止まらない聴衆がたくさんいたことを覚えている。演説の終わったあと、まるで父と娘のように李登輝と蔡英文が抱き合ったひとコマは今も語り草だ。
このときの選挙で蔡英文は惜敗してしまったが、その4年後には捲土重来し総統選を勝ち抜いた。選挙前、李登輝は「120パーセント、蔡英文を支持する」と公言し、支援を惜しまなかった。しかし、就任した蔡総統が、日台関係の推進にあまり積極的に取り組まなかったことなどもあって、李登輝は厳しい言葉を投げかけた。産経新聞のインタビューに「蔡英文は台湾の最高指導者として勇気と決断力に欠ける」などと発言し、大騒ぎになったことさえあった。もちろん、厳しい批判は大きな期待の裏返しだ。蔡総統が期待に応えられる能力と信念を持っていると李登輝が確信しているからであり、だからこそ今回の選挙でも「蔡総統の再選を支持する」と公言したのだ。
それゆえ、蔡総統にとっても、李登輝は政治の世界の「恩師」であり、厳しい言葉で叱咤しながら見守ってくれる「父親」のような存在なのである。かたや台湾の民主化を無血革命によって成し遂げた老政治家であり、かたや台湾の民主主義を中国の脅威から守り抜くことを決意して当選した現職総統だ。この二人は同じ「民主主義の信奉者」という共通項で結びついているのである。だから「李登輝が蔡英文を批判した、すわ仲違いか?」と新聞が報じようと、両者のあいだには「民主主義」による紐帯が存在するとも言える。だからこそ蔡総統は当選の報告を真っ先に李登輝にしたかったのであろう。
その日の夕方、蔡総統は、陳菊・総統府秘書長(官房長官に相当)を伴って李登輝を訪問した。直接当選の報告をすることと、翌日97歳の誕生日を迎える李総統にお祝いを伝えたのだ。「勝ちました」と報告する蔡総統に、「おめでとう」と返しながら李登輝は鷹揚にうなずいていた。
しかし、私の目に映る李登輝の表情には少し厳しいものがあるようにみえた。それは李登輝自身も、蔡総統のこれからの4年間がより厳しいものになるとわかっているからだろう。李登輝の目は、すでに次の2024年を見据えているのだ。台湾の憲法では、総統は2期までと決まっている。今回の勝利が決してこれまで4年間の政権運営が評価されたからだけではない蔡総統が、4年後の候補者にバトンタッチし、台湾の民主主義を守り続けていくためには、有権者をよりいっそう満足させなければならないという厳しさを、李登輝は伝えたかったのだろう。
◆投票前に「奇襲」を仕掛けるも砕け散った韓国瑜
投票前の報道では軒並み、民進党候補の蔡英文・頼清徳コンビが、支持率調査ではかなり優位に選挙戦を戦っているといわれていた。なかには本土派に近いメディアの支持率調査で、蔡総統が、国民党の韓国瑜に30%もの差をつけてリードしているというものさえあった。しかし、韓国瑜陣営は「もし支持率調査の電話が来たら『蔡英文を支持します』と答えてください」と国民党支持者に対して訴える「奇襲」に出た。それによって「韓国瑜劣勢という支持率調査はアテにならない」とアピールする作戦だ。
愚にもつかない作戦なのだが、投票日の10日前から支持率調査を報じることが禁じられ、私も含めて誰もが疑心暗鬼になった。
しかし、ご存知のとおり、私の心配は杞憂に終わった。結果は、蔡英文・頼清徳コンビが台湾の選挙史上初の800万票超えの大勝で、微妙と思われていた立法委員選挙でも過半数を確保するなど、とりあえずは台湾にとっても日本にとっても良い結果、それも予想以上に良いものとなった。
◆民進党が圧勝したわけではない
今回、蔡英文政権には、習近平氏の一国二制度発言と香港デモという強力な追い風が吹いた。さらには国民党候補が想像以上の低レベルだったという原因もあって、蔡政権は文字通り「V字回復」したわけだが、今回の大勝はこれらの「外部要因」に依るもののほうが多かったと思われる。その根拠として、政党別に投票される比例票が挙げられる。
選挙前は、立法委員の議席数で民進党が過半数(定数113)を維持できるかどうかがもう一つの焦点とされた。総統選挙で民進党が勝利しても、立法院の議席で過半数を維持できていないと「ねじれ国会」となり、スムーズな政権運営が出来ないからだ。結果、やや議席を落としたものの、61議席を確保した。そのうち日本の比例代表に相当する「不分区」での民進党得票率は33.98%、一方の国民党得票率は33.36%でほぼ同数である。さらに、国民党は小選挙区でも3議席増やしている。
これはおそらく、蔡英文政権に対する不満が、比例票に現れたものである。つまり、有権者も蔡英文総統のこれまでの4年間の成績が「決して良いとは思っていない」のである。しかし、中国と融和的な姿勢を見せる国民党はもっとダメで、しかも国民党候補は輪をかけてダメ。しょうがないから蔡英文に入れるか、という中間層が相当数いたと思われる。その一方で、立法委員を選ぶ際には、「国民党候補にも評価できる、あるいは期待できる候補がいる」という選挙行動によって、政党票が国民党にも投じられたと推察する。それが、総統選挙では蔡英文候補の爆勝になりながらも、政党票では両党が拮抗、という結果になったのであろう。
◆蔡英文政権のこれからの課題
総統選挙で200万票以上の大差がついたことで、一部では「国民党は再起不能」とも言われている。しかし立法委員選挙の結果をみれば、むしろ国民党は相対的に票を伸ばしている。結党100年以上の老舗がそう簡単に潰れるはずはない。ひまわり運動後の統一地方選(2014年九合一選挙)では軒並み民進党首長が誕生し、あのときも「国民党結党以来最悪の敗戦」「国民党はもはや消滅するのでは」といわれた。しかしその4年後、すなわち一昨年11月の統一地方選では、今度は民進党が大惨敗を喫し「2020年の蔡英文再選は消えた」といわれた。
台湾の選挙あるいは政局ほどダイナミックな変化を伴うものはない。きっと国民党はしぶとく生き残って復活してくる。そのためにも、蔡英文政権は今後の4年間を、これまでの4年間以上に頑張って成果を出さないと、2024年のバトンタッチをスムーズに行えないだろう。
李総統が心から願う日台関係の緊密化だが、両国間では、福島県ほか5県の農産物輸入問題がこれまでの4年間で解決できておらず、小骨のように突き刺さったままになっている。台湾に住む日本人としては、とくに日台関係の促進をぜひ頑張っていただきたいと願うとともに、私たち日本人もまた台湾側の思いに応えられるよう努力していかなければならないと感じた総統・立法委員選挙であった。
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早川友久(はやかわ・ともひさ)1977年(昭和52年)6月、栃木県足利市生まれ。現在、台湾・台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業後、台湾総統府国策顧問だった金美齢氏の秘書に就任。2008年、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフとしてメディア対応や撮影スタッフを担当。2012年12月、李登輝元総統の指名により李登輝総統事務所秘書に就任。共著に『誇りあれ、日本よ─李登輝・沖縄訪問全記録』『日本人、台湾を拓く。』など。