李登輝が進めた台湾の民主化の陰には、日本教育によって培われた、揺るぎない信念と「公」のために尽くさなければならないという日本精神の存在があったことはこれまで書いてきた通りだ。(連載:日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔)
とはいえ、日本教育によって培われた李登輝の日本精神だけで台湾の民主化が成功したかというと、そこには疑問が残る。台湾の人々に民主主義と自由を経験させたかった、という李登輝だったが、自分の信念を貫くだけで民主化が推進できるほど甘くない。なにせ、相手は戦後50年近くにわたって台湾を牛耳ってきた独裁政権の国民党なのだ。
◆「金」でみんなに辞めてもらった
党内には長年にわたって累積してきた様々な既得権益があった。その最も代表的なものが国民大会の議席である。国民大会は、五院(中華民国は五権分立)の上に置かれ、政府を監督するとともに、憲法改正などの権限を持つとされていた。中華民国は1912年に中国大陸で成立していたから、国民大会には中国各省から数名ずつの国民代表が選出された。
第二次世界大戦が終わり、再び国共内戦に突入した中華民国は敗れ、国家ぐるみで台湾へ移転してきたものの、「中華民国と中華人民共和国は未だに内戦中である」というレトリックのもと、「動員戡乱時期臨時条款」を公布、憲法を停止して国家総動員で「中国大陸を取り戻す」と息巻いていたのだ。
そのため、戦後数十年にもわたって国民代表は改選されることもなく、同じ人間が居座る事態が続いた。憲法が停止されている非常事態なのだから、選挙も行われないわけだ。彼らは「万年議員」と呼ばれ、高額の禄を食み、特権を享受する姿勢に批判が高まっていた。
台湾の民主化に着手するにあたって、総統の李登輝がまず手をつけたのが「動員戡乱時期臨時条款」の撤廃と国民代表の退任だった。「動員戡乱時期臨時条款」は、中華民国こそが中国の正統政府であり、中華人民共和国は「反乱団体」だと規定するものであったから、まず李登輝はこれを撤廃するよう国民大会に働きかけた。いくら総統といえども、国民大会が制定したものは国民大会でなければ撤廃させられない。民主化を念頭においた李登輝はここで法治主義的な手続きを重視したのだ。
続いては、国民大会代表の退任である。李登輝は国民代表のひとりひとりを自宅に訪ね、「どうか国家のために国民代表を辞めてくれないか」と頼んでまわった。総統自らやって来て頭を下げることに気をよくしない人間はいない。
それに加えて、当時としても破格の退職金と、高利の年金待遇を約束して、全員が退任することに同意してくれた。今でも李登輝は当時を思い出して笑う。「あの頃は国民党にはまだ金がたくさんあった。その金でみんなに辞めてもらったわけだ」。ここには、李登輝の現実主義的な一面が透けて見える。金でカタがつくのであれば、長々と話し合いをして時間を無駄にせず、一気に解決してしまおうという考え方だ。これによって、国民大会は改選が可能となり、健全な民主主義の土壌がならされたのである。
◆李登輝が「中国人の考え方」を学んだ場所
こうした一連の民主改革を行うには、党内部の批判をかわすべく、細心の注意を払いながら進めていかなければならない。それには、中国人の発想や思考を理解していなければならない。李登輝はそれをどこで学んだのだろうか。
それは李登輝曰く「蒋経国学校」であった。そもそも農業経済学の若きスペシャリストとして政治の世界に入った李登輝は、もちろん政治経験はゼロである。そんな李登輝に対し、蒋経国は、李の職掌と関係ないような会議であっても「出席するように」と言い渡した。李登輝は会議の前に資料を見ながら、その結論を予想する。学術的に考えればこういう政策になるだろう、と予め考えながら会議に臨んだのだ。
ところが、会議はいつも李登輝の予想とは異なる結果となった。そんなことが何度も続き、蒋経国の発言を注意深く聞いていた李登輝は、ハタと気付く。蒋経国は、普通に考えればAという結論になるところを、政治的な様々な条件を加味してBという結論を導いていた。つまり、学術的にはAという結論が正解でも、政治的にはBが正解なのだ。政治は、議論に勝てば終わりではなく、あらゆる人々の利益を最大公約数的に実現させなければならないということを学ぶとともに、中国人を如何にしてコントロールしていくかを身につけたのが、まさにこの蒋経国学校だったのである。
◆「党の軍隊」を「国家の軍隊」に
民主化に着手した李登輝は、政権人事においても人々が驚くようなことをしてのけた。蒋介石や宋美齢といった国民党中枢に近く、これまでずっと軍部を掌握して来た参謀総長の●柏村を国防部長(国防大臣)に抜擢しただけでなく、次の組閣ではなんと行政院長(首相に相当)に昇格させたのである。(●=都の者が赤)
●柏村の横暴ぶりはもちろん台湾社会でも批判の的だった。その人物を国防部長どころか、内政の要である行政院長に据えるとは、初の台湾人総統となった李登輝に期待した市井の人々からみれば「李登輝、お前もか」という心境だっただろう。組閣人事が発表された翌日、ある新聞は社説にただ「無言」という文言だけを掲載して抗議の意を表した。開いた口がふさがらない、ということであろう。
ところが李登輝の真意は違った。李登輝が設定した大きな目標は「これまで党の軍隊だったものを、国家の軍隊に変えなければならない」であった。●柏村は故蒋介石総統の夫人だった宋美齢の寵愛をかさに、三軍をいいように牛耳っていた。そこで李登輝はまず、●柏村を国防部長に抜擢した。
国防部長は出世ではあるものの、軍の現場とは離れる。李登輝によれば「軍事会議がどうの、戦術がどうの、と言っているよりも、書類にハンコをつくのが国防部長の仕事」なのだそうだ。
このとき、宋美齢は李登輝をわざわざ訪ねて「台湾海峡がきな臭いこの時期に、●柏村を参謀総長から外すのはやめてくれ」と懇願している。宋美齢からすれば夫の蒋介石亡き今、軍部を掌握する●柏村の存在こそ「党への影響力の源」だったのではあるまいか。これを李登輝は一蹴している。今日でもそのことを振り返るとき、李登輝は憤りを隠さずに言う。「いくら元総統の夫人だと言ったって、なんら権限などないんだ。そんな人間がクチバシを挟んでくる。時代遅れな発想だなぁ」。
李登輝はさらに●柏村を行政院長へ大抜擢した。これは●柏村からすれば「痛し痒し」だっただろう。大出世には違いないが、ますます軍の現場から遠ざかる。これは李登輝がそれまで学んだ中国人の操縦法を使ったものだ。「中国人は出世が嬉しくてたまらない。でも軍からは離れるし、軍事会議にも出られない。嬉しい反面、●柏村の軍に対する影響力はますます小さくなっていったんだ」。
それからまもなく、立法院(国会)が改選されることになった。新しく成立した立法院は、総統の指名による行政院長を任命しなければならないが、李登輝は●柏村を行政院長に指名しなかった。指名しなければ行政院長に居座るわけにはいかない。官邸で「次はあなたを行政院長には指名しない」と告げた際、●柏村は顔を真っ赤にして怒り狂ったそうだ。
こうして、軍部を自らの支配下に置き、牛耳っていた●柏村は、出世することで軍部から離され、最終的には牙を抜かれるが如く、その影響力を奪われた。軍では民主的な人事が行われるようになった。こうして李登輝が設定した「党の軍隊を国家の軍隊にする」という目標が実現したわけである。
◆李登輝にとっての「政治の先生」
李登輝が民主化を進めたその信念の基礎には、日本教育による「公のために尽くす」という日本精神があった。しかし、それだけで猪突猛進に民主化を進めただけでは、国民党の抵抗勢力に遭い、志半ばで挫折していただろう。
日本精神とともに、中国人を如何にしてコントロールするか、権謀術数を学んだ蒋経国学校の存在が、台湾民主化の成功のカギであったといえる。李登輝は今でも蒋経国を「政治の先生」と呼び、尊敬していることがその発言からもうかがえる。
もちろん蒋経国はその評価において負の面もあることは事実だ。しかし、李登輝にとって、蒋経国の教えがなければ、あの国民党内部にあって批判をかわし、民主化を進めることはできなかったという思いもあるだろう。そうした意味で、李登輝が民主化においてその手腕を存分に発揮できた裏には、蒋経国総統の存在も大きいのだ。
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早川友久(はやかわ・ともひさ)1977年(昭和52年)6月、栃木県足利市生まれ。現在、台湾・台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業後、金美齢事務所の秘書として活動。2008年に台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフとしてメディア対応や撮影スタッフを担当。2012年12月、李登輝元総統の指名により李登輝総統事務所秘書に就任。共著に『誇りあれ、日本よ─李登輝・沖縄訪問全記録』『日本人、台湾を拓く。』など。