李登輝は日本でも「台湾民主化の父」として知られている。そのためか、日本からの表敬訪問があると「困難な民主化を推めた原動力はなんですか」とよく聞かれる。すると李登輝は「台湾の人々に枕を高くして寝させてあげたかったからだ」と答えるのだ。それでは、民主化される前の台湾はどんな社会だったのだろうか。
◆犬が去って豚が来た
戦後、日本の統治を離れた台湾を占領したのは中華民国だった。日本が米国に占領統治されたように、台湾は中華民国に委ねられたのだ。中華民国政府は「台湾は日本統治の苦しい時代を終え『祖国』の懐に戻った」と嘯いた。いま歴史を振り返れば皮肉なことだが、台北郊外の基隆港から上陸する中華民国の兵士たちを、台湾の人々はそろって歓迎したという。50年にわたる日本時代が続いたとはいえ、多少なりとも清朝時代からの名残りを留めていた台湾の人々にとってはむべなるかな、とも言えるだろう。
しかし、出迎えた人々は兵士たちを見て顔色を変えた。それまで見慣れた、揃いの軍服で整然と隊列を組んで歩く日本の兵隊さんと比べると、あまりにもみすぼらしかったからである。長らく朝日新聞台北支局の顧問を務めていたジャーナリストの駱文森さんから聞いたが、船から降りてきた彼らは天秤棒を担ぎ、着の身着のままでやってきたという。
台湾の人々の不安をよそに、中華民国による占領統治が始まったが、間もなくその汚職が蔓延し法を顧みない統治に対して台湾の人々の不満がくすぶり始めた。当時の世相を反映した言葉が今も残っている。「狗去豬來(犬が去って豚が来た)」。つまり、日本時代は様々な制約があり、台湾総督府も番犬のようにうるさかったが、治安や衛生は良く安心して暮らすことができた。しかし、今度来た中華民国は豚のように食い散らかすだけ、という意味である。
そして人々の堪忍袋の緒が切れた結果、1947年2月28日には「二二八事件」が起こる。闇タバコを取り締まる役人が、市民に暴行を働いたのに対し、周囲の人々が抗議。それに対して役人が発砲して死傷者が出た。これが発端となって大きなデモとなり、全土に広がったのだが、占領政府は彼らの不満に機銃掃射で応えた。これ以降、統治をしやすくするために、戒厳令を敷くとともに、高等教育を受けたエリート層や不満分子を徹底的に弾圧する「白色恐怖」と呼ばれる時代が幕を開けたのだ。「白色恐怖」とは、取り締まる憲兵たちが白いヘルメットをかぶっていることに由来するという。
そんな台湾内部の実情と前後して、中国大陸ではその支配権を争う国共内戦が繰り広げられていた。結果、共産党に敗れた国民党は台湾へと敗走してきた。いわば、国家まる抱えで移転してきたようなものである。
◆「危ない原稿」をこっそり消していた夫人
こうして台湾の「非民主的」な時代が始まった。言論の自由もなく、政府を批判することも許されない。ちょっと批判めいたことを口にしただけで、その人が姿を消す時代である。その頃、李登輝はすでに日本内地から台湾に戻り、台湾大学を卒業して学者への道を歩んでいた。
時おり総統夫人の話し相手をすることがあるが、話が当時のことになると「本当に危ない時代だった。主人はたまに講演することがあったけど、事前にその原稿を見て、ちょっと危ないなと思う箇所は消しちゃうのよ。あとで主人に『勝手に原稿を消すな』って怒られたけど、そうしないと家に帰ってこられないもの」と、昨日のことのように話してくれるのが印象的だ。
◆李登輝はなぜ、蒋経国に気に入られたのか
戦後、二度の米国留学を経て、農業経済のスペシャリストとして頭角を表した李登輝だが、それに目をつけたのが、蒋介石の息子である蒋経国だった。当時の台湾では、疲弊した農村をいかにして救うか、また農業社会から工業社会へいかにして転換していくかが大きな社会問題となっていた。そこに米国で最優秀博士論文賞を受賞して帰国した李登輝に白羽の矢が立ったのはむしろ自然だったのだろう。
こうして蒋経国の抜擢により、政治の世界へ入ることになる李登輝だが、問題がひとつあった。国民党に入党するかどうかである。当時、台湾の政治は外省人(国民党とともに中国大陸からやってきた人々)に牛耳られていたと言っても過言ではない。本省人(台湾人)たる李登輝をはじめ、台湾の人々にとって国民党は自分たちを弾圧する首謀者であり、唾棄すべき対象として捉えていたのだ。そんな国民党への入党を李登輝は決断する。
これまで何度か書いてきたが、李登輝は徹底した現実主義者だ。名より実を取ることで台湾に貢献してきた指導者ともいえる。そんな李登輝の現実主義者たる片鱗を見せたのがこの国民党への入党だった。一番の大きな理由は、独裁政権であるがゆえ、党員にならないと会議にも出席できないし、意見も通らないのである。
李登輝いわく「せっかく台湾の農民のために勉強してきたのに、その意見が通らないのでは意味がない。国民党に入ることで台湾のためになるのならたやすいこと」なのだ。総統夫人も「国民党に入ったことで、周りの人からは頭がおかしくなったかと言われたこともありました」と述懐する。私が「奥様は反対しなかったんですか」と尋ねると「反対もなにも、主人が入ると言ったら入る、それだけです」と、夫唱婦随の関係が垣間見えるのだ。
ここから李登輝は、台北市長、台湾省主席(現在は廃止)、副総統と着実にポストを上がっていく。そこで多くの人が疑問に思うのだろう。李登輝も「なぜ蒋経国にそれほどまでに評価されたのか」とよく質問される。李登輝の答えはこうだ。
「なんで蒋経国が私を選んだか、本人に聞いたことがないからはっきりしたところはわからない。でも、私が感じていた原因は、私のなかの非常に日本人的なところを評価していたのだと思う。というのも、国民党といっても一枚岩ではないから、誰もが権力闘争の中にいる。そうすると、蒋経国のまわりには、少しでも上のポストを得ようと、仕事もせずにお追従を言ったり、おべっかを使ったりする者ばかりになる。だけど私はもともと学者だったから出世には興味がない。お世辞は言わないかわりに、人民のために仕事をしたいと思うから、会議でも言いたいことはズケズケ言う。そういった日本人の持つ勤勉さや誠実さ、正直さを彼は評価していたのではないか」。
◆権力基盤を持たない李登輝の「深謀遠慮」
そして1988年1月、李登輝が副総統のとき、総統の蒋経国が急逝する。憲法の規定により、その日のうちには宣誓を終えて総統に昇格していた。曰く、もっとも「無欲」な学者出身の政治家が、いつの間にか頂点にたどり着いたのだ。ここから李登輝は、心に秘めていた「台湾の人たちに、枕を高くして寝させてやりたい」という信念を行動に移す。
とはいえ、短期間だけのピンチヒッター総統と思われており、党内に派閥もなければ、軍や情報機関も握っていないという「ないない尽くし」の総統であり、性急なことは出来なかった。まずは総統として、数十年も改選されていなかった立法院(国会)や国民代表大会の代表を全員退職させた。ひとり何百万元という退職金を支払って、である。
並行して、当時の台湾は「中華人民共和国と内戦中であるため、暫定的に憲法を停止する」ことなどを決めた「動員戡乱時期臨時条款」、いわば国家総動員法を廃止した。これによって憲法の機能が復活する。こうなると、中国大陸のことは全く考える必要はなくなり、台湾内部の改革や民主化に集中することができるようになるのだ。
李登輝は、党内の一部から漏れ聞こえてくる「李登輝は台湾独立派なのではないか」と訝しむ声を消し去り、妨害をたくらむ一派を安心させるために総統の主導で「国家統一委員会」を作った。当時はまだまだ「いつかは中国大陸を取り戻す」と息巻く者が少なからずいたという証左だろう。国家統一委員会は、将来の中国大陸と台湾の統一を進める組織だが、統一のための話し合いを始める条件がふるっている。「共産党が自由民主化され、富の配分が公平になったあかつきには、統一の話し合いを始める」というのだ。
李登輝は笑って言う。「そんな日は永遠に来やしない。でもこの組織のおかげで、それまで私に猜疑心を持っていた連中は安心して、李登輝支持にまわるようになったんだ」。
◆民主化に成功したのは「日本教育」の賜物
こうして李登輝は権謀術数を交えて党内の支持を集め、台湾の民主化を推めていく。言い換えれば、李登輝は総統かつ国民党主席という権力を用いて、社会の自由民主化を推進するという真逆のことを実践したのだ。いわば、独裁政権のトップたる絶大な権力を巧みに使い、独裁政権を瓦解させる自由民主化の推進に利用するという「アウフヘーベン」をやってのけたのである。
李登輝は一連の民主改革を、一滴の血も流さず、一発の銃弾も打つことなく完成させた。「台湾の人々に枕を高くして寝させてあげたかったから」という信念を貫いた李登輝に、その強さの源を聞いて刮目したことがある。
「日本教育だよ。人間生まれてきたからには『公』のために尽くせ。そう叩き込まれてきたんだ。だから私は国民党の権力を手にしたときも、『私』のことは全く考えることなく『公』のために使おうと決心できたんだ」。
そして李登輝はこう続けたのである。「だから台湾の民主化が成功したのは、日本のおかげでもあるんだ」と。