「皆さん、日本と台湾のために奮闘しましょう」。振り絞るような声でステージから語りかけた李登輝の姿に、感極まったのか泣いている聴衆も見えた。今月上旬、李登輝は台北市内のホテルで、200人を超える日本人を前に講演した。
◆沖縄講演で「中国の覇権主義」を強く批判した真意
今年95歳。先月の沖縄訪問を無事に終えたとはいえ、体力は落ちてきている。公の場で講演する機会も減って来た。それでも台北市日本工商会(商工会議所)からの講演依頼には「日本人に伝えなければいけないことがあるんだ」と快諾した。
原稿の内容は沖縄で行ったものを基礎に練った。もともとは司馬遼太郎さんとの交流をテーマにした原稿を考えていたのだが、直前になり「沖縄の原稿にしよう。せっかく台湾にいるたくさんの日本人を前に話すのだから、言っておかなきゃならないんだ」と差し替えた。
原稿は、中国の覇権主義を強く批判する箇所もあり、沖縄では新聞が「李氏がここまで踏み込んで中国の覇権的な動きを日本での講演で指摘したのは異例」と書くほどだった。
ただ、それは李登輝の日本に対する限りない期待の表れとも言える。
実際、原稿のなかで「中国の覇権的な膨張を押さえ込みつつ、平和的な発展を促すため、最も重要かつ必要なものは日台の関係をより一層強化することに他ならない」と断言するように、常々、台湾にはどうしても日本が必要だし、日本にも台湾が必要だ、という信念がある。
決して体調が万全ではないなか、「日本はアメリカに頼るな。憲法を改正して、アメリカに頼るのではなく、対等な協力関係を結ぶんだ」と力強く訴える李登輝の姿は鬼気迫るものさえあった。その気持ちが通じたのかもしれない。講演が終わると万雷の拍手に包まれた。
そのまま退場する予定だったが、やおらマイクを握り、冒頭の言葉を投げかけた。隣で腕を支えていた私も内心「やっぱり千両役者だ」と舌を巻いた。
◆李登輝が「暴れん坊将軍」を愛してやまない理由
台北市内での講演の翌々日、日本からの表敬訪問があった。李登輝が「私はね、毎日テレビで『暴れん坊将軍』を見ているんだ」と話すと、一同は笑いながらもビックリする。「暴れん坊将軍」といえば、日本人なら誰もが耳にしたことのある時代劇ドラマだが、まさか台湾の元総統が毎日ほぼかかさず夫婦で見ているなどと思いもよらないだろう。余談だが、「暴れん坊将軍」は台湾のケーブルテレビが中国語の字幕付きで一日に3回放送している。
なぜ李登輝が「暴れん坊将軍」を引き合いに出すかと言えば、これが李登輝の考えるリーダー像に合致しているからだ。「暴れん坊将軍」は、将軍吉宗が浪人に扮して町へ出て悪者を懲らしめたり、汚職を暴くというストーリーが主だ。もちろんドラマであることは承知の上だが、李登輝が好きなのは、この吉宗の「心がけ」だという。
つまり、将軍という指導者の立場にありながら、庶民の生活のなかへ飛び込み、庶民の暮らしがどうなっているか、困っていることはないかと、実に細やかに社会を観察している。それこそが指導者のあるべき姿なんだ、と話す。
李登輝はもともと農業経済の分野で台湾を代表する学者だっただけに、若い頃から現場を見ることをモットーとしている。あるいは、李登輝が小さい頃に感じたという社会の不公平と、江戸の封建時代を重ねているのかもしれない。
毎年末になると、地主だった李登輝の家に小作人が鶏や米を抱えてやって来て「来年も畑を耕させてください」と頼みに来る。そうした光景を見た李登輝は、子供心に「なぜ同じ人間なのに不公平なのだろう」と世の中の不条理を感じ取っていたのだ。
こうした経験がのちに、農業経済を研究して農民の生活を向上させたいと思うきっかけになったし、総統になっても国民の生活を第一に考えることの原点になった。
指導者というものは常に庶民のことを気にかけ、今の社会がどうなっているかを知らなければ国を引っ張っていけやしない、というのが李登輝の考えだ。その点からいくと将軍吉宗の行いは、李登輝が考える指導者としての理想像になるのだ。
時代劇は勧善懲悪がはっきりした物語だが、正義感の人一倍強い李登輝の好みにも合っているのだろう。聞いたことはないが、もしかしたら、幕府の重臣の汚職を暴き「成敗」していく吉宗の姿を、総統として国民党の特権政治を是正していった自分に重ねているのかもしれない。
◆台湾にも「反日教育」が行われた時代があった
先日、タクシーに乗ると、運転手にいきなり「あんた、日本人か。李登輝知ってるか」と聞かれた。「もちろん知っていますよ」と答えたが、運転手は続けてこう言った。「李さんがいなかったらね、日本と台湾の関係、こんなに近くなってないよ」。
台湾は親日国としてテレビやネットでも取り上げられるようになったが、大きなきっかけは東日本大震災だろう。赤十字を通じた額だけで200億円を超える義援金が台湾から寄せられ、日本人は驚いたに違いない。
とはいえ、戦後台湾が日本の統治を離れてからずっと親日国だったかというとそうではない。戦後台湾を占領した国民党は、日本と戦った敵国であったし、「日本統治の残滓を払拭する」として徹底的な反日教育を行った。戦後長らく、日本の映画上映や日本語書籍の輸入販売が禁止されたのはそのためである。
国民党の独裁体制に対する反動か、台湾の人々は日本時代を懐かしみ、評価するようになった。もちろん、日本時代に台湾に尽くした人々の存在なども大きいだろう。そうした下地が、その後の台湾の人々の親日感を築くひとつの要因にもなっている。
しかし、そうした台湾人の親日感をまとめ上げ、日本に対する広報官の役割を果たしたのは李登輝だった。司馬遼太郎の『台湾紀行』で何度もインタビューを受け、台湾に住む「旧日本人」たる人々を紹介して大きなブームを巻き起こした。また、新渡戸稲造の『武士道』を高く評価し、自らも『武士道解題』を出版している。
これは台湾の総統の立場にありながら、日本語で自由自在にものごとを考え、話すことができる李登輝だからこそ出来た役割だろう。
◆「やたら日本びいき」という非難は当らない
李登輝は、指導者が常に頭に置いておかなければならないのは「国家」と「国民」だという。そして、李登輝にとっては、自分の国である台湾だけでなく、常に日本のことも気にかけている。
もちろん台湾をないがしろにしてまで日本の肩を持つようなことはありえない。ただ、あまりにも日本に期待するせいか、その心情が理解されず「やたら日本びいきだ」と非難され、ネット上では罵詈雑言も飛び交う。
しかしそれは違う。
というのも、李登輝は祖国である台湾が「存在」していくためには、日本がどうしても不可欠だということをよく理解しているからだ。台湾社会では、選挙の際などにマグマのように「独立か、統一か」の論争が噴き出し、中国は虎視眈々と台湾の併呑を狙っている。
しかし、李登輝が常々言うのは「独立か、統一かという問題よりも、台湾にとって最も重要なのは、台湾が『存在し続けること』にある」ということだ。台湾は、日本や中国と比べても小国であり、台湾だけでその存在を維持していくにはあまりにも心もとない。しかし、民主主義や自由という同じ価値観を持つ日本の協力を得られれば、台湾はその「存在」を維持することが可能になる。そして李登輝曰く「台湾が存在していればこそ、そこに希望が生まれる」というわけだ。
実際、日米安保体制においても、「台湾地域」が日米安保条約の対象だと、日本政府の統一見解で明言されている。こうした現実的な面からいっても、李登輝が台湾を第一に考えたうえで、協力関係を築く相手こそ日本であると考えているのであって、決して「日本びいき」だけで日本の肩を持っているわけではないということの証左である。
「皆さん、日本と台湾のために奮闘しましょう」。この言葉も、決して日本人に向けたリップサービスではない。李登輝は心の底から日本と台湾が手を取り合い、アジアに貢献することを願っている。そして、そのためには95歳という高齢でありながらも、自分に出来ることは何でもやるという気持ちでいることは間違いない。
側にいる私には、その李登輝の気持ちが痛いほど分かる。だからこそ、日本人として李登輝に感謝しつつも、その思いを少しでも日本の皆さんに伝えたいと思うのだ。
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早川友久(はやかわ・ともひさ)
1977年(昭和52年)6月、栃木県足利市生まれ。現在、台湾・台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。金美齢事務所の秘書として活動後、2008年に台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフとしてメディア対応や撮影スタッフを担当。2012年12月、李登輝元総統の指名により李登輝総統事務所秘書に就任。共著に『誇りあれ、日本よ─李登輝・沖縄訪問全前記録』『日本人、台湾を拓く。』など。