1995年7月、中国は台湾近海へ「演習」と称し、弾道ミサイルを打ち込む暴挙に出た。李登輝としては、当時中国との間に存在したチャンネルを通じて寄せられた情報によって、ミサイル発射が威嚇あるいは建前上のものに過ぎないことがわかっていた。
とはいえ、やはりその脳裏には70年前、「これでは日本は戦争に勝てない」という確信を抱かせた光景がよぎったかもしれない。
◆李登輝が「中国には勝てない」と思ったワケ
李登輝は過去に一度だけ中国大陸を訪れたことがある。台湾がまだ日本の統治下にあった昭和19年の頃のことだ。
前年、台北高等学校を卒業し、京都帝国大学農林学科へ内地留学をしたものの、戦火の広がりとともに学業半ばで志願兵となった李登輝は、台湾南部の高雄に派遣され高射砲隊の訓練を受けていた。
数ヶ月の訓練を終え、いよいよ内地へ戻ることとなった。船による長旅である。しかし、昭和19年ともなると日本軍は米軍の力に押され、東シナ海には米軍の潜水艦がうようよしていた。いつ撃沈されてもおかしくない状況である。
そこで李登輝らを乗せた輸送船は台湾海峡をいったん北上し、中国大陸沿岸に沿ってさらに北上した。そして、しばらくの間、山東省の青島で錨を下ろすことに決めた。
一週間ほど滞在した青島で李登輝が見た光景は衝撃的だった。港では背の高い山東人と呼ばれる地元の港湾労働者たちが、日本や台湾では見られないような不潔で暗い、労働環境としては最悪の場所に身を置きながら立ち働いている。
その時、李登輝はこう思ったそうだ。
「この絶望的なまでに低い生活水準のなかで生きていける人々と戦っても、日本は勝てないのではないだろうか」
中国人が、日本や台湾とは全く異なる文明や価値観に置かれた人種であることを李登輝が悟った瞬間でもあった。ほんのわずかであっても、中国や中国人というものを実地に見た経験が、李登輝の中国に対する警戒心を醸成してくれたのかもしれない。
戦後になり、内地から台湾に戻った李登輝は、228事件勃発後に国民党側と台湾側の代表の話し合いの場に立ち会った際、早々に引き上げている。李登輝は後にインタビューで当時のことをこう回想している。
「ちょっと聞いただけで危ないと思った。中国人たちはのらりくらりと時間稼ぎをしているに過ぎないのが見て取れたからだ」
時代はめぐり、自身が台湾の総統としてその中国と正面から対峙することになるとは、当時の李登輝はゆめゆめ思わなかったことだろう。
◆台湾の民主化を恐れた中国の反応
1988年、蒋経国の急逝を受けて総統に就任した李登輝だったが、社会の安定を損なわないよう、蒋経国路線を継承するとしながらも、台湾を少しずつ民主化の方向へと進めてきた。
また、それまで台湾の中華民国と大陸の中華人民共和国は、自分たちこそが中国の正統な政府という主張を崩していなかった。中華民国からすれば、中国大陸は「共産党に奪われた領土」であり、いつかは大陸を取り戻すというスローガン「反攻大陸」が国是とされていたのだ。
それゆえ、中華民国の統治範囲は台湾にしか及んでいないのに、90年代に市販されていた「中華民国全図」では、中国大陸全土が国土として描かれていたという。ちなみに当時の地図は現在「復刻」されて、記念品として売られている。
こうした状況に変化をもたらしたのもまた李登輝だった。1991年、李登輝は「中華民国(台湾)と中華人民共和国は内戦中」と規定した、いわば国家総動員法の「動員戡乱時期臨時条款」を撤廃した。李登輝からすれば、いつまでも実現可能性がないに等しい「中国大陸奪還の夢」にこだわって国力を浪費するのをやめ、あらゆる資源を台湾へ集中させようという意図であった。
もちろん、そこには「中国大陸は中華人民共和国が有効に統治しているのを認める。だから、台湾は中華民国が統治してやっていく」と宣言する意図もあったのだが、それが中華人民共和国の逆鱗に触れた。「台湾の民主化=台湾の独立」に繋がる、と捉えられたのである。
そこで中国は諸外国に対し、盛んに「李登輝を国家元首として接遇してはならぬ」と圧力をかけ続けていたのだ。
◆李登輝の訪米を可決したアメリカ議会の底力
李登輝が推し進める台湾の民主化に世界の注目が集まっていたさなかの1995年4月上旬、李登輝のもとを米コーネル大学学長のフランク・ローズが訪れた。大学が傑出した卒業生である李登輝の名を冠した講座を開設するにあたり、記念式典への出席と講演を要請するためだった。
現役の台湾総統が訪米するなど前代未聞である。実現すれば中国の大きな反発を招くことは容易に想像できた。それでもなお、ローズ学長をはじめ大学側が自分の招請に踏み切ったわけを李登輝自身はこう分析している。
「米国は民主主義を重視する社会だ。良くも悪くも、他国に対しても民主主義制度を持つべきだと考えているところがある。仮に私が訪米したら何を話すか。台湾の民主化について話すに決まってるんだ。当時、台湾の民主化は相当な水準まで進んでいた。それを彼らは話させたいということなんだ」
総統選挙が翌年に迫っていたが、李登輝によれば決して選挙のために訪米を決めたわけではないという。台湾の国際的な地位が低い状況のなかで、自身が提唱した「現実外交」に沿って、どんなやり方であろうとチャンスさえあれば出向き、相手国との関係を築く。こうした考え方をベースに、訪米を決断したというのだ。
李登輝が訪米の招請を受諾し、準備を始めると徐々にその情報が伝わり出した。中国は再三にわたり抗議活動を展開した。米国は当時、中国寄りとされる民主党のクリントン政権だったため、当初はコーネル大学が進めた李登輝招請に難色を示したとされる。
ところが、李登輝の訪米を支持する決議が上下院の絶大な支持のもとで可決されたため、クリントン大統領も同意せざるを得なくなった。
当時の米中関係は決して悪くなく、良好な関係を維持し続けることは米国にとっても国益に適うはずだったが、米国の民意が台湾の民主化を無血で成し遂げつつあった李登輝の訪米を優先させたのだ。
李登輝も当時を思い出してこう語る。
「議会の力というのはすごい。私を訪米させるために投票までやったんだ。訪米したときは上院議長がわざわざ出迎えてくれたし、議員が何人も会いに来てくれた」
結果的に、中国の圧力や、議会での議決などもあり、この95年6月の李登輝訪米は国際社会で大きな注目を浴びることとなった。
◆中国のミサイル発射が高めた李登輝支持
そこで黙っていないのが中国である。李登輝訪米を「ひとつの中国を破壊させるもの」「台湾独立の企み」などと非難したうえで、積極的に台湾封じを始めたのだ。
例えば、95年7月中旬に予定されていた台湾と中国を繋ぐ正式なチャンネルである「辜汪会談」が中断され、両岸関係の安定に影響を与えた。そして、8月15日からは「軍事演習」と称して台湾の北方約136キロの海域に向けてミサイルを発射したのである。
しかし李登輝は、当時中国との間に存在した別のチャンネルによって事前にミサイル発射の情報を得ていた。中国が台湾への「威嚇」としてミサイルを打ち込んでくるものの、それは決して「武力攻撃」ではない、という中国側の意図を理解していたのだ。
そこで李登輝は民衆に向かって「怖気づくことはない。シナリオは準備してある。心配するな。弾頭は空っぽだ」と鼓舞するとともに、株式市場の暴落や銀行の取り付け騒ぎが起きた場合に備え、事前に十分な準備を進めていることを明かして民衆の動揺をおさめた。中国の「恫喝」は、皮肉にも李登輝支持の民意を高める結果を招いたのである。
このミサイル危機の翌年に行われた台湾初の総統直接選挙で、李登輝は国民党候補として当選した。対抗馬である民進党の総統候補は、戦後の独裁政権下で台湾の独立を主張したことで軟禁され、後に亡命して海外生活を長く送った彭明敏だった。主張からいけば、台湾の人々は彭明敏を支持してもおかしくなかったが、実際に選ばれたのは李登輝であった。そこには「強いリーダー」として、中国の暴挙から台湾を守り、社会の安定を維持した李登輝の手腕が、人々の脳裏に鮮明に残っていたからであろう。