「台湾民主化の父」とも呼ばれ、長らく総統をつとめた李登輝にどういったイメージを持たれているだろうか? 私は、学生時代、ふとしたきっかけで初めて台湾に興味を持った。当時は、早稲田大学の学生。その後、金美齢の秘書を経て、台湾大学に留学。そして2012年から、李登輝元総統の秘書として働き始めた。これも偶然の出来事なのか、はたまた運命なのか。着任してから、かれこれ7年が経過しようとしている。私が李登輝と日々、業務で、プライベートでお付き合いしている語り合いの言葉の中から、李登輝が今、伝えたい言葉の真意を私なりに汲み取って、みなさんにお届けしたい。
◆李登輝元総統に「日本人秘書」が必要なワケ
秘書の仕事、といっても一言で説明するのは難しい。メールや手紙の返事、スケジュール管理から来客の応対、原稿の草稿づくりから御礼状書き、外交官とのお付き合いまで。訪日すれば身の回りのお世話をすることもある。それこそ「李登輝元総統の対日窓口」としての役割を求められる。
総統は日本からの来客が帰るとよく私に「今日のお話はあんなのでよかったかな」と聞く。常に「李登輝はいま日本人に何を伝えるべきか」を考えているのだ。これは決して人気取りとか、耳ざわりの良いことを言うことではない。台湾にとって日本がなくてはならない存在だからこそ、「日本よ、しっかりしろ」という一念だけで、総統は「日本人に伝えておかなければならないことはなにか」を考えている。
事実、奥様(私はいつも総統夫人をこう呼ぶ)は事あるごとに私に向かって「早川さん、主人はね、台湾の総統までやったくせに、いつだって日本のことを心配してるのよ」と苦笑混じりに話すのである。日本からの来客が、李総統に何を話してもらいたいか、という時機的なセンスも考えてのうえで日本人秘書を必要としているのだろう。
◆日々どんな仕事をしているのか
名刺交換などをするとよく「いつもどんな仕事をしているんですか」と聞かれることがある。実際、細々とした事務処理をすることも多く、答えとしては「秘書業務です」としか言いようがないのであるが、それではあまりに抽象的だ。そこで、李総統の日本語秘書がどんな仕事をしているのか、ある一日をご紹介したい。
私は毎朝、基本的には淡水の李登輝事務所に出勤するのだが、直行することは少ない。政治家の秘書と聞くと、朝が早いイメージがあるだろう。たとえ退任した総統であろうと変わらないと思うのだが、実際、朝はそれほど早くはない。これは李総統の生活スタイルとも関連している。総統夫妻は宵っ張りなのだ。夜は読書やテレビを見ることで過ごし、就寝は午前1時、2時というのはザラ。しぜん、起きるのはゆっくりめとなる。
だからこそ、この朝の時間は、私にとって多方面の関係者とのコミュニケーション作りの時間に当てることが多い。人間関係を維持していくには一緒に飲みに行くのがベストだが、そうそう毎晩飲み歩いてもいられないので、この「朝まわり」は情報交換と人間関係のパイプの維持に有益なのだ。李登輝が知りたいこと、李登輝が発する言葉を理解するための情報収集ともいえよう。
例えば、特に用向きがなくとも、日本の新聞社の台北支局や、国交がない台湾において大使館の役割を果たす「交流協会台北事務所」に出向く。コーヒーの一杯もごちそうになりながら、世間話に興ずる。あまり無駄話をすると、朝の忙しい時間に相手にも迷惑なので、短時間で切り上げるが、それによって時には情報を得ることもあるし、顔つなぎにもなる。今頃だと、今月下旬に予定されている沖縄訪問についての打ち合わせに台湾外交部や航空会社を訪問することも多い。
午前10時ごろには事務所に出勤する。そこではメール、手紙、FAXの処理である。FAXは時代の流れか最近めっきり減ったが、親しくなればFacebookやLINEで繋がり、それを通じて仕事上の連絡をしてくる人もいる。どの手段にせよ、毎日少なくない数の連絡が来るが、内容は様々である。
今日のメールボックスを見ると、沖縄訪問についての事務連絡、インタビューや原稿の依頼、表敬訪問の日時調整、御礼のメール、原稿料の振込先口座の確認、来春の出版を目指す書籍の章立てに関する打ち合わせ、等だ。御礼状や書籍の贈呈は毎日のように届く。これらを、まずは総統に報告するもの、しなくともよいもの、つまり私が処理することで足りるものに分けるのも私の仕事だ。
ちなみに総統に報告するものについては、記録を残すためにもすべて公文でのやり取りとなる。それぞれについて簡潔に公文を起こし報告する。例えば、「日本のなんとか新聞から、何月何日に最近の日台関係についてインタビューしたい、という依頼がありますが如何しますか」といった具合だ。それに対し、総統が「可」とサインすれば裁可が下りたことになり、総統の判断を仰いだ、という手続きを踏んだことになる。
私自身で処理できるものは返信し、御礼状や贈呈された書籍への返事を書き終わる頃には、総統の自宅から前日に報告した公文が戻ってくる。私が報告した内容について、総統がそれぞれ判断するわけだが、その内容についても相手方に連絡しなければならない。「総統は喜んでインタビューをお受けします。ついては、○月○日、何時から総統ご自宅にてお願いします。詳細は追ってご連絡します」といった具合である。
こんなやり取りをしている間に、もはやお昼の時間である。
◆相手にとって台湾訪問がよいものになるよう心を尽くす
この日は、午後3時から、日本からの総統への表敬訪問があったため、ランチもそこそこに総統の自宅へ向かう。前もって忘れてならないのは、当日の名簿と簡単な挨拶原稿だ。総統は来客前、必ず名簿をじっくりと見て、名前と肩書を頭に叩き込む。
その際には「2004年末の訪日の際にお世話になった。前回お会いしたのは2年前。現在は社長をリタイヤされ相談役」などといった情報を付け加える。こうすることで、来客の周辺情報がインプットされ、メモを見ずとも「こないだお会いしたのは2年前じゃなかったかな」と総統の口からスラスラと出てくるようになる。それによって場が和んで話が弾むことにも繋がるのだ。
それ以外にも、事前に来客の秘書とやり取りしたなかでヒアリングした「宿泊はどこか、台湾滞在は何日間か、その他の大まかな予定は」などといった内容を報告しておくことも多い。というのも、総統は常々「どこに泊まってるんだ? 食事はうまいか」とか「果物は食べたか。今ちょうどマンゴーが出てきたから食べなさい。あとで届けさせるから」などと、ただ自分を訪問してくれたときだけでなく、相手が台湾に滞在する時間すべてに関心を抱き、台湾訪問が良いものになるよう気を配っているのだ。
◆李総統が「稀代の人たらし」と言われる所以
この日の表敬訪問は1時間半ほど、午後4時半には終わった。今日のお客様も大変喜んでお帰りになった。この表敬訪問が、ときにはかたちを変えて晩餐会にご招待いただくことになる場合もある。
午後5時近くには、ちょうど奥様も外出から戻られた。4月に生まれたひ孫に会いに行ってきたのだ。「やっぱりベビーがいると張り合いが出るわ」とひいおばあちゃんは喜びを隠せない。
ついさっきまで総統は「中国の『一帯一路』に日本と台湾はいかに対抗するべきか」などと獅子吼していたと思ったら、ひ孫の写真を出して来て「どうだ。かわいいだろう」などとやる。元総統にして日本と台湾を心から憂い、95歳にあっても常々「日台関係をどう前進させるべきか」を語る一方で、ひ孫自慢を臆面もなく見せる。誰だか忘れてしまったのだが、何かの評伝で李総統が「稀代の『人たらし』」と評されていた。この落差にとてつもなく人間味を感じるのは日頃、そばにいる私だけではないということだ。
この日はそのあと、日本のメディアと会食することになっていた。もともとは2人での食事だったのだが、ちょうど日本から来ている大学教授も連れて来るという。であるなら、私の台湾大学での恩師も同じく国際法が専門なので声をかけ、二次会で合流することになった。いつの間にか二人の約束が、二次会では10人近くに増えていた。日本よりゆるやかな空気の流れる台湾ならではの光景だが、台湾で過ごして10数年、こうして人の輪が少しずつ広がっていく。
◆「本物の李登輝の言葉」を届けたい
私が李登輝に仕えることになったのも、ひとつのご縁だった。そのご縁がどんなものだったかは追々お伝えしていきたいが、幸福にも李登輝の生の言葉を毎日のように聞くことができるようになった。この幸運を自分だけで独り占めするのはあまりにももったいない。また、李登輝の言葉の真意が誤解されて伝わっていることもある。「本物の李登輝の言葉」を皆さんと分け合うことが、私のもうひとつの仕事だと思っている。
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早川友久(李登輝元台湾総統秘書)
1977年栃木県足利市生まれで現在、台湾台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は、金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年より李登輝より指名を受け、李登輝総統事務所の秘書として働く。