人技師をご存じだろうか。
ジャーナリストで、特に台湾関係者には『トオサンの桜−散りゆく台湾の中の日本』
などの著者としても知られる平野久美子さんが、今年の2月1日発売の『諸君!』3月号
に、「日本・台湾=『水』の絆の物語─水利技師・鳥居信平の知られざる業績」と題し
たレポートを発表されました。
平野さんは「八田與一だけではないよ、多くの無名の民間人が台湾のために尽くして
くれましたよ」──こう話すトオサンたちの言葉に背中を押されて農業土木技師の鳥居
信平(1883〜1946)の取材を始めた。その一端を「諸君!」に発表されたわけですが、
鳥居信平は屏東県林辺渓に独創的な地下ダムを築き、今でも屏東の人々から慕われ尊敬
されている、八田與一の先輩に当たる日本人技師だ。
この平野さんの「諸君!」レポートを読んで感激した奇美実業創業者の許文龍氏は、
早速、鳥居信平の胸像制作に取り掛かったと仄聞しています。
平野さんのご承諾をいただきましたので、「諸君!」3月号に掲載されたこのレポー
トを転載してご紹介します。原稿は「諸君!」で10ページ、約11,200字(400字で約28
枚)もの長文ですので、本誌では5回に分載してご紹介の予定です。
なお、掲載に当って、本誌が台湾関係の媒体であることから、「諸君!」発表時の
メイン・タイトルとサブ・タイトルを入れ替え、「水利技師・鳥居信平の知られざる業
績─感動秘話日本・台湾=『水』の絆の物語」としたことをお断りします。また、原文
は漢数字を使っていますが、本誌では算用数字に改めています。 (編集部)
■平野久美子(ひらの くみこ)ジャーナリスト。東京生まれ。1972年、学習院大学卒。
出版社勤務を経て、アジアを多角的に捉えた執筆活動を続ける。99年『淡淡有情幅で
第6回小学館ノンフィクション大賞受賞。『中国茶・風雅の裏側』(文春新書)や『ト
オサンの桜−散りゆく台湾の中の日本』(小学館)など著書多数。
水利技師・鳥居信平の知られざる業績【3】
─感動秘話日本・台湾=「水」の絆の物語
水は農民の命。いまも土地を潤す地下ダムの設計者に、台湾の人々はけっして感謝の心
を忘れない
ジャーナリスト 平野 久美子
■近代科学に触れた原住民
鳥居信平は1914(大正3)年に渡台すると、ただちに水源、土壌、作物の用水量の調
査を開始し、あわせて仏印やオランダ領インドネシアなどの水利事情を視察した。1919
(大正8)年からは、農場開設のために原住民を案内役に雇い、標高3000メートル級の山
々を歩き回り、渓流の勾配や伏流水の状態を克明に記録した。マラリアの特効薬キニー
ネを持参しての調査行は、2年の歳月を要した。その結果、伏流水が海抜15メートルの
地点まで流れていることを突きとめ、林辺渓の上流にあたる2本の渓の合流点に地下ダ
ムを造ることにした。
水利工事は1912(大正10)年5月から始まった。総督府からの補助金がついたものの、
総工費は約65万1500円、工期は2年。水が干上がる11月から4月にかけて河床を一気に掘
り、長さ328メートルのダムを埋設した。ダムに集めた伏流水は、全長3436メートルの
導水路を通して第1分水工に送ったあと、暗渠を三方へ伸ばし、さらに支線、小支線を
補って扇形の屏東平原に水がゆきわたるよう工夫した。
開墾も困難を極めた。南部の沖積層は中部とは違い、大小無数の石ころがコンクリー
ト化して非常に固い。そこで、地元の原住民に協力を申し入れ、まず整地作業を行った。
それが済むと、強力なスチーム・プラウ・エンジンで深耕用ナイファーを牽引し、コン
クリート状の土層を2メートル近く掘り起こした。大正4年発行の『台湾糖業会誌』の記
事によれば、労勤者の延べ人数は14万人以上、日給は62二銭だった。大正10年の日雇い
賃金1円99銭(労働省賃金統計課資料)に比べるとかなり安いが、『台湾製糖』は、原
住民の頭目に毎月30円と60キロリットルの樽酒を献上していた。戦後、補償金だけは国
営会社『台糖』が引き継ぎ、1967年まで毎月300台湾ドルを頭目に支払っていたという。
工事が終わる頃には原住民の生活は大きく変わった。総督府の移動交易所が開かれる
と、釘や農具や布を買う人が集まり、中には手提げ金庫を買ったり、郵便貯金に励む人
も出た。1円銀貨に人気が集まったのは、祭礼用の冠に、ワシの羽根やシカの角、ユキ
ヒョウの毛皮とともに飾るためだった。
二峰[土川]の建設工事のエピソードは、パイワン族の歴史を口伝する女性によって
現在も子から孫へと伝えられている。かつて「谷口滝子」という日本名だったチャーパ
ーライ・サングさん(71)は、父親の従兄から工事の話を聞いて育った。5日間働いて2
日だけ家族のもとへ帰り、また5日働くというローテーションで、村の若者たちは日雇
いに通った。当時の写真を見ると、原住民の男たちが掘り出した石ころを、女たちが
月桃(げげっとう)の葉で編んだ大きなザルに入れ、頭に載せて荒れ地を行進している。
長袖の上着にズボンをはいているものの、女も男も裸足である。彼らが親の反対を押し
切ってまで参加したのは、お金の魅力よりも近代科学への好奇心によるものだった。村
人の間で語りぐさになったのは、技師が火薬を使って岩を爆破する作業だ。
「日本人が大きな岩に火薬をしかけていっぺんに壊したときは、みんな腰を抜かしたそ
うよ(笑)」
現場の指揮を担当した信平は、妻まさと3人の子供を屏東市の社宅に残して仕事に明
け暮れた。薄暗いランプのもとで煤にまみれて遅くまで設計図と向き合うこともあった
ろう。ときには、頭月の家でシカ肉やタケノコを肴に小米酒(粟のどぶろく)を飲み、
そのまま酔いつぶれたこともあったろう。東京帝国大学を卒業した当時のエリートが、
よくぞ、“蕃地”にとどまり、原住民のふところへ飛び込んで行ったものだ。彼らの大
切な狩り場や漁場に配慮して、自然を壊すことなく設計したことが信頼につながったの
だろう。
糖業界ではそんな彼を「人に接するに純朴、職務に厳格の一面に豊かな人情味があり、
人使ひがうまい」「どこ迄も熱の人であり意の人」(『糖業』昭和12年第11号より)と評
している。鳥居邸を訪れたとき、鉄也さんの妻の矩子さんが「お義母さんから聞いた」
と前置きしてこんな話を披露してくれた。
「頭目から、おまえは立派な顔をしているので首を家に飾りたいと、真面目に申し入れ
があったそうです。お義父さんは、この仕事が終わったらくれてやってもいいと応じた
んですって。肝っ玉のすわった人だったんですね」
■嘉南大[土川]より早く輪作を導入
1923(大正12)年、2500ヘクタールに及ぶ「萬隆農場」が完成。信平はその後も、南
部の力力渓(りきりきけい)沿いに1700ヘクタールの「大[口向]營(だいきょうえい)
農場」を開墾すべく山中にとどまった。地下ダムは山本悌二郎社長の雅号「二峯」にち
なみ二峰[土川]と名付けられ、豊水期は1日あたり約25万トン、乾期は約7万トンの農
業用水を供給した。『台湾製糖』の山本社長が、後に農林大臣を二度も務めたほど農業
に明るい人物だったから、部下も意欲的な試みができたに違いない。
当時、伏流水をこのように大規模利用した灌漑は例がなく、きわめて斬新な試みだっ
たため、「南部台湾開拓史の一新紀元」(『台湾糖業全誌』大正14〜15年期)、「地下水
利用法としては本島に於ける嚆矢(こうし)のもの」(『国民新聞』大正12年7月25日付)
と絶賛された。新しい農場ではサトウキビの収穫高が順調に増えたうえ、土壌水分をコ
ントロールすることによって糖分が上昇することもわかり、荒蕪地開拓の事業は会社の
発展と地域住民の生活向上に大きく貢献した。1936(昭和11)年、鳥居信平は農業土木
の関係者として初めて、日本農学賞を受賞している。
戦後、二峰[土川]の維持管理は県政府と『台糖』の両者が共同で行ってきたが、大
規模修理はたった3回だけ。80年以上も前に自然環境を破壊することなく、水の性質や
地形を利用し、管理がたやすい持続可能な工法が台湾で実施されていたことに、驚きの
念を禁じ得ない。
途中から林辺渓に同行した元明治大学教授の山本光男さん(81)は、台湾政府の水利
規格試験所の技術顧問をしている。彼は数年前に二峰[土川]を知り、衝撃を受けたと
話す。
「余分な水を自動的に排水路へ流す横越流(よこえつりゅう)式余水吐(よすいば)き
といい、満水時の水門の開閉システムといい、ほんとうによくできています。効率よく
運用できるように細かい工夫がされているんですよ」
地下にダムを設けたから、雨期にどんなに豪雨が降ろうとも水は濁らず、乾期でも安
定した水量が確保できる。しかも、ダム底部に土砂が堆積しないので維持管理は経済的
だ。山本さんは1990年代に新しい水工法特許を日本で申請したが、「一部のアイディア
は、すでに鳥居信平が行っていた」と笑う。
もうひとり、専門家の意見をご紹介する。台北一中を卒業した鉄也さんの後輩にあた
る元東京農業大学教授の高須俊行さん(85)は、戦前の台北帝大農業土木科に学んでい
た頃、実習で二峰[土川]を訪れた。水源を伏流水に求めた斬新な計画、大区画農場の
整備、輪作に必要な水量を詳細に調査していることに強く感銘を受け、興味深く見学し
たことを今も思い出すという。
「作物に必要な水量を数値化した点は、彼の大きな功績です。当時まだ台湾では研究さ
れていなかった輪作体系と作物の用水量について、実施状況、現地試験、現地の土壌や
気象を勘案して、具体的な数値をはじきだしたのですからね」
彼が計算した用水量は、その後の灌漑工事計画の基礎になったことは間違いない。農
業土木の専門家だった信平は、集団移住してくる農民がサトウキビを栽培しながら、米
を自給自足できるように配慮した。そのため設計の段階から、乾期にはサトウキビ畑ヘ、
雨期には水田へ、余った水は雑作用の畑にまわすよう分水工を設けて輪作を取り入れた
のである。
鳥居信平の輪作法を、さらに大規模に、綿密に、組織的に実現したのが八田興一であ
る。彼は1919(大正8)年から嘉南大[土川]の工事を始め、東洋一の烏山頭ダムと嘉
南平野に網の目のように広がる水路を10年かけて完成させた。こちらの総工費は5545万
9000円也。ダムを造って確保した水は約5万ヘクタール分だったのにもかかわらず、15
万ヘクタールの豊饒な農地が生まれたのは、サトウキビ、米、雑作(緑肥やイモなど)
用に耕地を3つに細かく分け、1年ごとに順番に作付けして灌漑したからである。この3
年輪作法こそ、八田與一の最もすぐれた功績だと、農業博士号を持つ李登輝前総統は称
えている。 (つづく)