台湾に親近感を持つ沖縄の人々が暖かく迎える中、「学問のすゝめと日本文化の特徴」
と題した講演会では1500人もの人々が詰めかけ、仲井真弘多・沖縄県知事などとの昼食
会の席上では尖閣諸島を「日本の領土」だと改めて表明し、沖縄と台湾、日本と台湾は
「心と心の絆が大切」というメッセージを残して無事に帰台された。
本誌前号でも記したように、今回の沖縄訪問の意義はおおよそ2つに絞られる。
1つは、日本政府が李元総統に課した入国を制限する4つの条件((記者会見しない、
講演しない、政治家と会わない、東京を訪問しない)の最後に残っていた「政治家と会
わない」をクリアしたことだ。
24日昼、東南植物楽園で仲井真弘多・沖縄県知事と懇談し、初めて公の場で政治家と
の面談を実現した。これで入国制限を完全に突破した。
2つ目は、台湾と中国が領有権を主張する尖閣諸島について「日本の領土だ」と明白に
述べ、領有権や漁業権の問題は存在しないとの見方を示したことだ。
この発言の席には、仲井真知事ら沖縄県庁の幹部や羅坤燦・台北駐日経済文化代表処
代表代行や李明宗・台北駐日経済文化代表処那覇分処処長、亀井啓次・交流協会総務部
長らも出席していた。つまり、地元要人、台湾大使館要人、外務省関係者(亀井総務部
長は前外務省モンゴル・中国課台湾班班長)の前での発言だった。尖閣諸島が所属する
沖縄県で、これらの人々を前にしての尖閣発言の衝撃は、昨年の靖国参拝を思い出させ
るのに十分な衝撃だった。
本会では本部事務局の主要メンバーのほとんどが沖縄入りして歓迎する一方、ホーム
ページに逐次その模様を掲載し、さらにブログ「平成20年(2008年) 李登輝元総統 沖
縄訪問特集」を開設してより詳しい模様を報道した。
ここに総集編として、台湾から同行の早川友久理事・前青年部長が執筆したブログ「平
成20年(2008年) 李登輝元総統 沖縄訪問特集」の全文を日付順に3回に分けてご紹介し
たい。 (編集部)
■ブログ「平成20年(2008年) 李登輝元総統 沖縄訪問特集」
http://blogs.yahoo.co.jp/ritouki2008
【第1日・9月22日(月)】
■李登輝元総統が沖縄ご到着
http://blogs.yahoo.co.jp/ritouki2008/1324769.html
李登輝元総統は、9月22日朝、初めての沖縄訪問に向かうため、台北桃園国際空港へ
姿を見せた。
沖縄行きの便は機材がボーイング737-800と、小さな機材なので李氏が座るビジネス
クラスも全8席というコンパクトさ。SPのほか、李氏の沖縄行きに同行しようと台湾の
李登輝学校卒業生も搭乗し、中華航空午前8時15分発のCI120便は定刻どおり出発した。
雲の切れ目から沖縄本島が姿を現し始めると、李氏は立ち上がって窓の外に目を向け
ていた。徐々に高度が下がるに連れ、沖縄は雨模様。フィリピン沖で発生した台風が台
湾に近づいているのでその影響が出ているという。
那覇空港では、本会会員ら約100名が李元総統を歓声と拍手で出迎えた。
午前6時に起床したという李元総統はそのまま南部へ向かい、摩文仁丘にある沖縄県
営平和祈念公園を訪れた。一行は12時過ぎに到着。まず、沖縄平和祈念堂に献花した後、
同じ園内にある「平和の礎」へ向かわれた。
「平和の礎」は、沖縄での戦没者の名前が国籍を問わず刻まれており、その石碑が扇
上に並べられている。沖縄で戦没した台湾人は総勢34柱。李元総統は石碑に深々と一礼さ
れた。
台湾からはテレビ局が5社、台北に支局を持つ産経新聞や読売新聞などの支局が4社が
来沖して取材に当たっている。園内では待ち構えていたメディア陣に囲まれ、幾つかの
質問にも答えた。
Q.「なぜ沖縄を訪問先に選ばれたのか」
A.「6年前、初めて(今回の講演会の実行委員となる永井獏・琉球大学教授から)沖縄
での講演会を依頼された。その時は時間がなかったし、身体の調子も良くなかったの
で果たせなかった。そして今年6月にもう一度永井先生から依頼があったので、『じ
ゃあ行きましょう』ということで来たわけです」
Q.「沖縄の印象は」
A.「第2次大戦であれほど被害を蒙っていながら、見事に整えられている。道も街も見
事に設計されている感じを受ける。非常に頼もしい。これからは沖縄が日本の先頭に
たって行くようにならなきゃいけない」
昼過ぎには、雨上がりとあって湿度が高く、蒸し暑い天気に。歩いている途中に背広
を脱いでYシャツ姿になる一場面もあった。
■「平和祈念公園」、「ひめゆりの塔」を訪問
http://blogs.yahoo.co.jp/ritouki2008/1324837.html
李登輝元総統は、午後から糸満市の「ひめゆりの塔」を訪問。ぐずついた天気で湿気
が台湾より強い感じだ。
李元総統は「ひめゆりの塔」に対峙すると、深々と3度頭を下げた。
隣接する「ひめゆり平和祈念資料館」では、沖縄戦を実際に体験し、現在は語り部を
務める新岬昌子(あらさきまさこ)さんの案内で、塔がある第三外科壕跡地や資料館を
見学した。
新岬さんは今年80歳。亡くなったご主人は、1943年(昭和18年)から終戦まで台湾の
新竹や台中大甲郡で教師をされていたとのこと。亡くなるまで、当時の教え子と交流が
あったそうだ。
ご自身も陸軍少尉として終戦を迎えている李元総統は、新岬さんの説明に耳を傾けな
がら、李氏はゆっくりと館内を見回り、時々質問を挟む。当時の学徒の写真パネルの前
へ来ると、新岬さんに「あなたはどれ?」「綺麗な人だったね」。
年間90万人が資料館を訪れると聞くと、李氏は「日本の総理大臣はここへ来ますか」
と尋ねる。「来ない」との返答に、「総理大臣になったら、まずここを見学して沖縄の
ことを知ってから東京で仕事するべきだ」と語った。
見学を終え、一行が資料館を後にした途端、スコールに見舞われた。この後、李元総
統は投宿先である宜野湾市内のホテルに入って休憩。
夕方からは、那覇市内の琉球料理レストラン「四つ竹」で開かれた本会および李登輝
学校日本校友会主催の歓迎晩餐会に出席された。
午後6時半から開かれた会には、李元総統をはじめ、警護人員もみな沖縄独特のかり
ゆしウェアに着替えて参加。60名あまりの会場総立ちで出迎えられると、笑顔で出席者
と握手をしながら席についた。
柚原正敬・本会常務理事の歓迎挨拶の後、挨拶に立った李元総統はわざわざこの日の
ために原稿を用意。「ちょっと長いですよ」と前置き、「現在の台湾は『五里霧中』の
状態。民主化に貢献した勢力が、今では民主化を阻害している。馬政権は好き勝手なこ
とをやり始めている。『愛国』と口で言いながらいい加減なことをしている。台湾は今
後、自己統治能力を備えた現代人にならないと国を失いかねない。悪い習慣を超越する
能力を身につけるべきだ。そして、日台関係の心の絆をより一層強くすることが必要」
などと述べた。
その後の乾杯では、注がれたビールを一気飲み。いつもながらのサービス精神に一同
から大拍手ながら、台湾から同行してきた李元総統の主治医の陳先生は何ともいえない
表情。
厳重な警備の中でも、本会会員限定の晩餐会とあって和やかな雰囲気で会は進み、李
氏と握手したり記念撮影を求める会員の姿も。
舞台で披露された琉球舞踊には李氏も箸を止め、熱心に見入っていた。
記念撮影後、今回の講演会主催者である永井獏・琉球大学工学部教授が閉会の辞を述
べた。
「私は勝手に十数年前から、李登輝元総統を氏と仰いできました。師弟の関係には2
つの約束があると思います。一つは、いつかは師を乗り越えなくてはならないこと。も
う一つは、師より先に逝かないこと。私が李元総統の年齢になる時、李元総統は106歳
になる計算になります。今日の李元総統の若々しさ、お元気さを拝見したらきっと106
歳までお元気でいらっしゃるんじゃないかと確信しました。明日の講演を楽しみにして
おります」と締めくくった。
午後9時過ぎ、李元総統一行は投宿先に戻り休まれた。
23日午前はホテルで休息を取られ、午後から宜野湾市の沖縄コンベンションセンター
で『学問のすすめと日本文化の特徴』をテーマに講演される。
(続く)