とだった。当時の梅原克彦(うめはら・かつひこ)市長が発案し、許世楷・台北駐日経済文化
代表処代表のアドバイスを受けながら進めた。
ところが、この交流に横槍を入れたのが中国だった。在東京の中国大使館の広報文化班の担
当者が仙台市東京事務所に「抗議」の電話を入れ、中国大使館幹部が仙台市役所に押しかけ、
果ては梅原市長の後援会幹部を通じるなど、さまざまルートで圧力をかけてきたと梅原氏は述
懐している(機関誌『日台共栄』平成22年5月号)。
それは「本当にうんざり」するほどの攻勢だったそうで、それでも梅原氏は「日本と台湾の
地方自治体間、そして市民の間の交流を深め、そのことを首長同士が公的文書で確認すること
自体、いかなる第三者から干渉される筋合いのものではない」と突っ張り、許添財氏(現・立
法委員)が市長をつとめていた当時の台南市と「交流促進都市協定」の締結に漕ぎつけた。
この台南市との友好交流都市提携が威力を発揮するのは5年後だった。平成23(2011)年3月
11日、1000年に一度と言われる未曽有の大地震「東日本大震災」が起こる。
前年の11月、台南市と台南県が合併して台南市となった市長選挙に民進党から出馬して当選
したのが頼清徳市長で、頼市長は1959(昭和34)年10月生まれ、国立台湾大学医学部卒の医師
出身の国会議員だった。
東日本大震災で友好交流都市・仙台の被災を知るや、頼市長は台南市を挙げて募金運動を展
開。4月22日には頼市長自ら仙台に駆けつけ1億円を超える義捐金を奥山恵美子・仙台市長に手
渡した。
このことをニュースで知り、胸が熱くなったことを昨日のことのように思い出す人は少なく
ないのではないだろうか。仙台市は中国の長春市と昭和55(1980)年10月27日に国際友好都市協
定を締結している。しかし、長春市長が仙台に駆けつけてお見舞いしたとは寡聞にして知らない。
梅原氏は現在、国際教養大学教授のかたわら本会常務理事をつとめているが、市長を経験し
て実感したこととして「中国側は、日中間の姉妹都市・友好都市の枠組みを実に戦略的、実利
的に利活用している」ことを挙げている。また「もちろん両国の市民ベースの交流それ自体は
良いことでしょうが、中国側のいろいろな政治的・戦略的な意図に、あまりにも無知、無頓着
な人々がほとんどです」と警鐘を鳴らしてもいる。
台南市は現在も仙台市の復興に力を入れ、昨日の産経新聞によれば「義援金はその後も寄せ
られ、総額は約1億3千万円に。さらに、頼市長自ら旗振り役となり、台南の地元企業が24年2月
から3年計画で仙台の大学生らの短期滞在を受け入れている」という。
下記にその記事を紹介したい。また、本会ではホームページに「日台姉妹都市一覧」を掲
げ、仙台市と台南市などの提携の詳細を記している。
◆日本李登輝友の会ホームページ「姉妹都市交流」
http://www.ritouki.jp/sister-city.html
「仙台に愛を届けよう」80年前の恩義忘れぬ台湾・台南市 義援金1億円超に
【産経新聞:平成25(2013)年3月30日】
http://news.livedoor.com/article/detail/7549492/
東日本大震災で大きな被害を受けた仙台市と、台湾の台南市が、震災から2年あまりが過ぎた
今も固い絆で結ばれている。
福島第1原発事故への懸念が高かった震災直後に、台南市長自ら仙台に駆けつけ、1億円を超
える市民の義援金を寄付。仙台の学生を元気づけるため、短期滞在を受け入れる事業も続けて
いる。手厚い支援の根底には、80年あまり前の日本統治時代に台南でダムを造った日本人技師
への恩義があった。(高久清史)
◆「仙台に愛を」
「『義援金を送りたい』『支援しよう』という電話が次々と寄せられた」。台南市の頼清徳
市長は、東日本大震災直後の台南市民の反応をこう振り返る。
台南、仙台両市は双方の七夕の祭りなどを縁に、平成18年に交流促進協定を締結。震災後
は、人口180万人超の台南市で「送愛到仙台(仙台に愛を届けよう)」を合言葉に募金運動が展
開され、義援金は約1億700万円に上った。
頼市長が義援金の小切手を携えて仙台市役所を訪れたのは、震災から間もない23年4月22日。
原発事故を受け、外国人観光客らが東北を敬遠していた時期だったが「家族をお見舞いする思
いだった。行動することで仙台市民を激励したかった」。頼市長は学校体育館の避難所も訪問
した。
義援金はその後も寄せられ、総額は約1億3千万円に。さらに、頼市長自ら旗振り役となり、
台南の地元企業が24年2月から3年計画で仙台の大学生らの短期滞在を受け入れている。
仙台国際交流協会によると、短期滞在はこれまで4回実施され、約120人が参加。1〜2週間程
度の日程で観光名所をめぐり、地元の人たちに浴衣の着付けを教えるなどして交流を深めたと
いう。
◆ダムが生んだ絆
息の長い支援を生み出す台南市民の親日感情。頼市長は背景として、日本統治時代の1930
(昭和5)年、台南市に烏山頭(うさんとう)ダムを築き上げた日本人技師、八田與一(はっ
た・よいち)(1886〜1942)の存在を指摘する。
八田の指揮のもとで総延長1万6千キロの用水路も整備され、不毛の地とされた一帯は穀倉地
帯に生まれ変わった。八田の功績は台湾の教科書でも紹介され、記念公園も造られた。
「八田さんのおかげで台南が今、豊かな生活を送れている」。頼市長は深い思いを込めて語る。
支援先は仙台市だけではない。頼市長は平成23年6月、約300人の訪問団を結成して観光友好
都市の栃木県日光市に入った。「行こう!日光」と書かれたTシャツ姿で、震災の風評被害の
払拭に一役買った。
頼市長はいま、被災地での復興の遅れを気に掛けている。「家族が被災したような気持ち
で、一日も早い復興を祈っている」。約2600キロ離れた地から、再生を強く願っている。