――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(15)
�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)
�田は「一九二五年末に第六回コミンテルン執行委員會總會(プレナム)に出席するために」、当時労働組合評議会中央委員で神戸地方評議会議長の「同志青柿善一郎」と共に上海入りした。
この年の春に起こった「上海の五・三〇事件をへき頭とする中國民族解放運動の嵐は夏ごろから反動をよびおこした」。「市内は戒嚴令が布かれ」、「勞働者のストライキはなお十月までつずいたが、その後はもはや繼續する力を失つた」。
「帝國主義の手先に支配された上海にわれわれが着いたのが十二月廿八日頃であつた」。この時、「上海の街は反動に支配されて以來活氣を失つていた」だけではなく、「外國にたいする勞働者連のふんげきはいちじるしいものであつた」。かくて埠頭で働く労働者は「日本人にとても不親切で敵對的だつた」。人力車に乗っても以前とは勝手が違う。「敵對的な感情でいつぱいなの」だ。料金を払う段になつても高い料金を吹っ掛けてくる。
そこで小競り合いとなる。「こうした小ぜりあいは要するに帝國主義にたいする勞働者の犯行のうつぷんであつて、決して憎むべきではない」と、なんとも心優しい。だが、さすがに共産主義者である。この種のイザコザも含め、「日本帝國主義の侵略は當然のむくいとしてわれわれ日本人が受けねばならなかつたところである」と、じつに物分かりがいい。
「中國の同志は、われわれが上海に着いたしらせを受けるとすぐ旅館につかいをよこし、こまごまと上海の樣子をおしえてくれた」。「勞働者や民族ブルジョワジーの大部分の、ソヴエト同盟にたいする親愛の情はいよいよ増して」はいるが、やはり「帝國主義勢力の監視がはげしくなつていたから以前よりはるかに警戒心を強くしなければならい」。
それでもソヴエト同盟、中国、朝鮮の同志たちの「同志愛のおかげで旅行の一切の準備は整つた」ので、大晦日の晩に、「ソヴエト同盟の船で上海から直接ウラジオへ行くことになつた」という。
時は変わって「一九三六年六月のはじめに、モスクワからシベリアを通過して再び上海に戻つてきた」。だが、1936年には獄中だったはずだから、1926年の間違いだろう。
ここまで読み進んで改めて感じたのだが、�田の文章は“自分に対する鈍感力”に横溢している。時系列は無頓着に近く、ひらがなが多用されているうえにテ二ヲハの誤用が散見され、まことにもって読解に手こずるばかり。いわば非論理的で感情の赴くままに綴られている。これで弁護士だったとは思えない。とはいえ、こうでないと1928(昭和3)年の治安維持法違反で逮捕されてから1945(昭和20)年秋に府中刑務所でフランス人ジャーナリストのロベール・ギランに“発見”されるまで、18年近くを獄中で過ごし非転向を貫いただけではなく、出獄するやマッカーサー連合軍を「解放軍」だなどと大歓迎できるわけがない。やはりネジが1本か2本、ズレていたようにも思える。
出獄から2カ月した12月には共産党書記長に。翌年には延安から戻った野坂参三と共に衆議院議員に。だが1947(昭和22年)には三・一ゼネストに関与し、連合軍との蜜月関係を解消。1950(昭和30)年6月には公職追放処分を受けたが出頭を拒否。10月に大阪から北京に亡命し北京機関を組織し、武装闘争を指示。共産党内に激しい路線対立を巻き起こしている。結局、1953(昭和28)年に脳細胞血管痙攣のために北京で客死。
こう振り返ると�田は非転向か、破天荒か、さて無天候(ノー・テンキ)か。「しまいには私に向つて『お前は何という臆病者だ』」と�田を罵った佐野文夫に対し、�田は「前後の考えもなく物見高い一時的勇氣の出る人間はどうも後がよくない、と痛感する」と冷笑を投げ掛ける。だが佐野に対する評価は、そのまま�田に当てはまるようだ。《QED》