――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(13)�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

【知道中国 1958回】                       一九・九・廿

――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(13)

�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

�田は「(満鉄の)設備のほとんどすべてがツアール・ロシアの殘したもの」と綴るが、「坊主憎けりゃ・・・」といった類の言い掛かりであることは明らかだ。

ここでモスクワで開催された極東民族大会への往復の旅程を追うと、1921(大正10)年10月初旬の上海到着後、長江を遡って南京へ。南京から北上し曲阜、済南を経て天津へ。天津から北上し山海関で満洲入りし、以後は長春、ハルピンへ。ここで西に向かって満洲里でモンゴル入りした後、「何となくソヴエト同盟入りの目的をその日のうちに達した」。

一方、モスクワからの帰路を見ると、「蒙古を通過したのは一九二二年の三月末から四月の中旬にかけて」であり、その後は張家口、北京、天津、徐州、南京、上海、大連を経て帰国している。おそらく各地に張り巡らされたスパイ網から逃れるために、このように手の込んだ旅をせざるを得なかったのだろう。

ところで�田は、帰国から3年ほどが過ぎた1925年に上海に現れた。中国共産党創立から4年後で、3回目の上海ということになる。

1923年のドイツ革命失敗「世界的に革命運動が低調とな」る一方、国内では1924年に「憲政會の加藤高明を中心とする資本家勢力の内閣が成立した」。こういった内外状況のなか、日本共産党内で「解黨の可否の論議が鬪わされていた」。それを知ったコミンテルンが日本共産党の中心人物を上海に呼び付けたのである。

「一九二五年の一月に解黨を主張する側の代表として佐野文夫、青野季吉兩君とこれに反對する荒畑寒村君と佐野學君と私が代表して上海でコミンテルン代表者極東部長同志ボイチンスキーと會見することとなつた」わけだ。「會見」とはいうものの、実態はボイチンスキーの前で釈明し、解党すべきか否かの指示を仰ごうというのだろう。(以後、�田は「ヴォイチンスキー」と記す)

「同志ヴォイチンスキーの住んでいた宿は日本人租界の中にあ」り、「事務員級の人ばかり住んでいる相當大きなアパート式の家で、多くのソヴエト同盟人が住んでいた」。ここで�田ら日本共産党員は解党問題に就いて「約一週間にわたつて晝夜をわかたず論議した」のである。日本人租界にコミンテルンの拠点とは。これを灯台下暗しというのだろうか。�田も「こういう家が何の不安もなく日本人租界内にあつたことからみても當時の上海の空氣がどんなものであるか察しがつく」。無政府状態とでも言うべきか。

「上海での一週間の討論の結果黨を解體することの誤びようは全代表者によつて認められた」。「特に当時の上海の革命的ふん圍氣がこれまで解黨を主張していた人々をも勇気づけることのなつたのである」。じつは中国共産党は1923年の第3回党大会で「黨全體として國民黨に參加する決議が採擇」された。この第一次国共合作が「上海の革命的ふん圍氣」を醸成させたことから、「わが黨は再び勇氣りんりんと起ち上がった」という。「勇氣りんりん」と少年探偵団の主題歌のようなアッケらかんとした表現が�田らしく微笑ましいが、まあ実態は「同志ヴォイチンスキー」に強く叱責されたということだろう。

じつは上海行きの船に日本のスパイが乗っているとの情報を事前に得ていた�田らは、「上海行の半客船である四千トン級の熊野丸に乘つた」。この船も満員だったが、満員であることは「日本帝國主義がイギリスと中國市場を爭つて動亂を援助し、その背景の下に中國に手をのばしていた」ことの証拠だと言う。やはり日本帝国主義は“親の仇”か。

この時、非合法時代の日本共産党(第二次日本共産党)で書記長を務め、1928(昭和3年)に台湾の基隆で官憲包囲の中で拳銃自殺した「渡政」こと渡邊政之輔も一緒だった。「同志渡邊政之輔ははじめての外國行きだものだからすつかり有頂天になつて」いた。《QE


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