――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――德田(8)德田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

【知道中国 1953回】                       一九・九・十

――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――德田(8)

德田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

德田は満鉄で長春に向かう。「汽車の内部は中國の列車よりもずつと小ぎれいにできていた。だが何となはしに日本流の小じんまりしたところがあり、いかにも日本官僚の支配らしいニオイがした」。

長春で投宿した旅館は「全然日本風でこの寒い北滿にどうしてこういう馬鹿げたことをするのか何としても理解することができなかつた」。旅館の構造に象徴されているように、「日本人は氣候や風土に適應して生活をたてることを欲しないように思える」。気候・風土の違いを無視するかのように、何処に行っても「日本風の生活をやるのである。これでは生活に適應性がなく根強く腰をすえることができないのが當然であろう」。かくして「だかう(ら?)早く日本え歸りたくなるのだ」。

ここからは、德田による在満日本人論である。

「滿州などに行つている者は結局早くもうかる山師になりたがる」。だから「中國人をだますか日本から入つて來る者をだましてかすめ取るかそんなことばかりに血をわかすことにな」り、「全體としてきわめて質の惡い商賣に引きずられて行」き、「中國本土はもちろんのこと滿州でも非常に日本人はきらわれている」。そこで「同じ植民地であつても、外國帝國主義の植民地よりは日本の植民地の方がはるかに惡政をしき猛烈な排斥が起こるのは無理のないこと」とか。どうやら同じ「帝国主義の植民地」でも優劣があるらしい。

德田は「滿州でたびたび排日ボイコットが起」る要因の1つに「中國國民政府の勢力が滿州にはびこつて來た」ことが挙げるが、「他の大きな原因」として日本が主とする軽工業と満洲土着資本との激しい対立を指摘する。つまり「全體として鋭く滿州の中國民族と對立することになったから」、「全面的に排日鬪爭が起つたのも無理はない」というのだ。

かくして「日本人が氣候や風土に適應しないでおこなつた惡らつなりやく奪政策は中国國人の反抗をたかめる基本要因の一つであつたろうことを痛感するのであ」った。

長春からハルピンへの旅で乗ったロシア側の列車に「入つてみるととても汚い」。それというのも「(ロシア)革命後はほとんど修繕もせず放たらかしのままなのだろら(う?)」。

地図を片手に、好奇心に任せてハルピンの街を歩く。

あちこち歩きまわっているうちに街外れの棺桶屋街に出る。「家という家はいろいろな棺おけの製造屋」で、「嚴丈にこしらえた寝棺がもち菓子のようななだらかな曲線をえがいた六尺もあろうかというフタがかぶさつている。そして表面は黃色や赤や青やいろいろ色とりどりにぬつてある」。「材料も丈夫なもので、板もなかなか厚いものを使つている。そしてフタをかぶせたところも密封されるようにできている。ロウを塗つたりして臭氣の發しないような装置もしてある」。

これら棺は「中國人がこの土地に埋めるのではなくて山東や華北の故郷に死體を送るためのもの」である。「故郷に死體を送る」ビジネスを運棺(または運柩)業といい、中国人の「入土為安(死後は故郷の土に還りたい)」という願望に応じたものだ。「山東や華北の故郷に死體を送る」ということは、ハルピンとその近郊に住む中国人の多くが山東や華北からの出稼ぎということを物語っているのである。

ハルピンはロシア革命後の混乱の渦中にあった。とはいえ「ツァール・ロシアは亡びても明らかにロシア人の勢力下にあった」。「中國人はまつたく奴隷的な状態におかれていた」。「正規のツァール軍隊は壊滅し」、「ツァール軍隊の將軍連は自分の娘や妻を人肉の市の商品に提供し、彼らが牛太郎をつとめているという話であ」り、「私もその片りんを二、三見た」。ハルピンでは「ツァール・ロシアの殘物共」が最後の足掻きを見せていた。《QED》


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