――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(11)
�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)
ここで�田の目は日本に転ずる。「日本でも古くから三井、大倉、高田という財閥が、この古武器商賣をやつていた。むろん中國えの輸出である」。こういう商売は「各國の條約で禁止されている」が、「平氣で政府の援護の下にこのボロい商賣が行われた」。「これらの財閥がとくに陸海軍御用商人であつたことを忘れてはならない」。「こういうやり方が日本軍閥の本性なのである。天皇の支配の下に世界平和をめざすという、あの八紘一宇を讀者は思い出すであろう」。
当然、�田は非合法活動に従事しているわけだから、要らぬゴタゴタは起こしたくない。南京では旅館のボーイが部屋に「いきなり十四、五くらいの娘を二人つれてきた」。もちろん「うしろには、卅代の女がちやんとついている」。そこで�田は「ははア」と察した。「要するに娼婦なのだ」。そこで「さて知らない國のことだし、重大な任務をおびているので、これが因でけんかを始めたりしてどんな災難が降つてかかるかしれないと思つたから」、幾許かの金を渡して「『かえれ』と手ぶりをした」そうだ。はて「要するに娼婦」だったのか、それともハニートラップか。
ところが「金をもらつたからには、そう簡單にはかえれません」。脅迫ではなく、「金をただもらつて追い拂われるのが心外だといつた樣子」。だが「どうもこちらも相手にする氣はない」。さんざん手こずったが「ようやくのことで?退できた」そうだ。
じつは『わが思い出 第一部』は単行本として出版される以前に共産党機関紙『アカハタ』に連載されたというが、この件を当時の生真面目な読者はどのように受け取っただろうか。
「これでみると南京の町は一種の腐敗だらくした女郎屋の町といつてもいいくらいで」、それというのも「地方の土ごう連中が地方では得られない享樂を求め集るのと」、「地方の戰爭や殺人強盗の難をさけて南京によつて來るから」であり、要するに「他にする仕事はなく、享樂を追い求めて暮らすばかりになつている」。
�田の南京に対する発言を今風に言い換えるなら、さながら徹底したヘイト・スピーチということになるだろう。それはそれとして首を傾げるのが、�田が南京大虐殺の一件に一切言及していないことである。
たしかに�田の南京滞在は1922(大正11)年であり、南京大虐殺が行われたとされる1937(昭和12)年の15年前に当たる。『わが思い出 第一部』が出版されたのは1948(昭和23)年であり、それ以前に『アカハタ』に連載されているはず。だが南京大虐殺が日本軍の「戦争犯罪」として告発された極東国際軍事裁判が行われたのは1946(昭和21)年5月から1948(昭和23)年11月まで。つまり同裁判と同時並行的に『アカハタ』連載が行われ、『わが思い出 第一部』が出版されている。
にもかかわらず、「一種の腐敗だらくした女郎屋の町といつてもいいくらい」の南京で起こったと言われる南京大虐殺についての言及が一切ない。ということは�田は南京大虐殺に興味を示さなかったのか。それともデッチ上げのヨタ話と考えていたのか。
いずれにせよ、南京大虐殺に対する敗戦後数年間における日本共産党幹部の“立ち位置”が浮かび上がってくる。『わが思い出 第一部』から判断する限り、故意か偶然か、あるいは特別の理由があってかは不明だが、�田が南京大虐殺に関心を示すことはなかった。
南京を後に上海へ。日本式旅館で働く女性たちは「いずれも天草、島原、長崎あたりの人々」で、「中國全體からシンガポールあたりまで賣られて行く哀れな娘子軍である。女中とはいいながら、何かしら一種變つたふぜいを帶びている」。村岡伊平次の世界か。《QED》