――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(5)
�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)
やがて南京へ。先ず長江河岸の下關に着き、それから対岸の浦口に向かった。
下關で長江の大きさと共に、「下關は小さな港なのに日本、イギリス、アメリカ等の河用砲艦、さらに驅逐艦、小さな巡洋艦までが數せきもならんでいたこと」に驚き、「各國の軍艦の展覧會みたようなものだが、この各國の軍艦が南京を壓倒しているさまをみて、中國青年が血をわかしたのも無理はない」と中国青年の心情に思いを馳せた後、「この異樣な威嚇感はまつたく不愉快そのものであつた」と苦々しく綴る。
長江を渡った先の「浦口は非常に汚い中國人の街だ。街ともいえない暗�さを感じさせる」。些か揚げ足を取るようだが、さて「非常に汚い」が形容するのは「中國人」か、それとも「街」なのか。それとも「人」と「街」の双方なのか。
じつは�田は浦口から汽車で山東省に向かい、その後、満洲を抜けて満州里で蒙古入りしモスクワに向かっているが、長い車中でのことだった。
�田の乗った寝台付き客車には「外國人と中國人のブルジョワ的なヨーロッパ化した連中だけが乘るらしい」。�田が入っていくと「五分間もたたないうちに、彼らは荷物をまとめて部屋を出ていつた。どうやら私が日本人だと知つて敬遠したものらしい」。彼らの振る舞いに「日本人への憎惡感と壓迫感を感じ」取った�田は、「こうして中國の�養ある人々が日本人との同席さえも心よく思わないことは私の胸に非常に強い印象をあたえた」と記す。かくして「帝國主義にたいする憎しみは日常の生活にまで、實に實に深刻に表現されることにおどろく」のであった。
無数のクリークが発達している「ほとんど平たんな田畑」が延々と続くから、「まるで河の中を汽車が走つているような感じだつた」。
やがて孔子廟のある曲阜駅に。「プラットホームからおよそ三米も離れてたくさんの乞食がずらつと並んだものである」。「この乞食がまた人の顔だかタドンだかわけがわからないほどまつ�に汚れている。顔の所々にはでき物ができていて赤かつたり、紫がかつたりしているのだ。こういう怪物にも等しい連中が老人、婦人、子供ありとあらゆる年ぱいの男女にまじつてつずいているのはまつたく異樣なものだつた」。
外国人が彼らに小銭を投げ与える。「そうすると乞食の群はまるで戰爭でも始つたように奪い合うのだ。その樣子をおもしろいと思うのか、さわぎがしずまるとまたザァーッとばらまくという風で、まつたく目もあてられない有樣だつた」。
寝台車の中で「中國人のブルジョワ的なヨーロッパ化した連中」から向けられ「日本人への憎惡感と壓迫感を感じ」たと綴るが、どうやら共産主義者であるはずの�田だが、「こういう怪物にも等しい連中」が「こういう怪物にも等しい」状態に陥らざるを得なくなった社会の矛盾は気にならなかったのか。いや�田の基準からして、「こういう怪物にも等しい連中」はヒトの部類に入らなかったということか。
ここで�田は「ここのステーションに群がる乞食たち」を「奴れいにもなれない貧窮者」として、彼らを生みだす社会構造を分析する。
「孔子の生まれたこの地方は早くから發達したところ」だが、「長い長い封建主義の彈壓の下に人口は増えても土地はなく、農民はまつたくひどい零細農になつたものと考えられる」。彼ら「貧農の中から落伍したものが上海、大連、天津その他の開港場に集まるいわゆるクーリー(苦力)である」。「殊に滿州にはこのクーリーが大々的に輸出され」、奥地でも工場労働者、農夫、鉄道工夫として「働かされ」、さらに「ウラジオから沿海州まで森林勞働者として流れていつている」。「おどろくべき人間勞働力の輸出」であった。《QED》