――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(10)
渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)
「露國の革命を謳歌し無政府主義のためにレーニンを讃美するに至つては、是誤れるの甚だしきもの」「露國に何等の自由、平等、公正、幸福ありや」「(「レーニン革命など)畢竟少數を以て多數を犠牲にするの慘事を繰返して止まざるべし」と説いた後、渡邊は「文化主義運動にして目的手段を此處に置くとせば吾輩之に與する能わず」と断言した。すると李大�は前言を若干訂正し、反伝統の文化運動は過激手段を奨励するわけではなく、「北京大學を中心として大學自己の自由の發達を圖り又地方に普及するの運動を進め、自然�化的効果によつて新社會を開く來たらんのみといふ」に至った。
李大�の弁明を聞いた後、渡邊は「結局、無政府的個人主義に歸着するなり」「彼等の唱ふる所、亦學者の空想のみ、實際の啓發と經世とに極めて縁遠き一の遊戯的弄學に類せずんばあらず」。だから李大�らの運動の「流弊寧ろ支那の國家的組織を敗壞を助成するの力あらんのみ。未だ余の服し得ざる所なり」と結論づけた。
「卒直な論議に興味の盡くる」ところがなく「俄に親和の情を深く」した渡邊だったが、李大�の「遊戯的弄學の類」にこれ以上付き合っても仕方がないと思ったのだろう。北京大学図書館を辞している。
なぜ李大�が「殊に巧みに日本語を操」るのか。それというのも彼は1913年に日本に留学し、早稲田大学政治学科に入学した後、初めて社会主義に接している。1916年に帰国し、新文化運動の中心人物となる。1919年の五・四運動を経て1920年にはコミンテルン極東支部の工作を受けて中国共産党結党準備工作を進め、同年10月には北京共産主義小組を結成。1921年の共産党結党後は中央委員として中心的活動を担う。その後、国共合作に参加しているが、1927年4月、張作霖軍によるソ連大使館捜索の結果、「ソ連に和し、外国に通謀している」罪で絞首刑に処せられた。
かりに李大�が「流弊寧ろ支那の國家的組織を敗壞を助成するの力あらんのみ」との渡邊の主張に耳を傾け、「實際の啓發と經世とに極めて縁遠き一の遊戯的弄學」を捨てていたなら、その後の人生は大きく変わっていただろう。あるいは知日派知識人としての人生を送ったかもしれない。だが、そうだったとしても1945年に日本が敗北したわけだから、当時の?介石政権から「漢奸」と断罪され、まともな最期を送れなかっただろう。いや共産党政権成立まで生き延びたとしても、毛沢東によって反革命の罪を着せられ死罪になっていた可能性は高い。いや、きっとそうだ。そうであったに違いない。
歴史に「もし」はないとはいう。だが、早稲田大学で社会主義に染まることがなかったらと考えると、李大�もまた時代の潮流に押し流されてしまったということだろうか。
北京の街を歩き、名勝旧跡を訪ね、政財学界の要人と面談を重ねた渡邊は、「支那の偉大なる骨董國、史跡國、敗殘國たる」に驚くと共に、「民國も亦一の新骨董」ではないのかとの印象を持った。かくして「民國の紊るゝこと麻の如く、岌々乎として殆きこと清朝の末路に優るものあり」とした後、「アヽ民國を亡ぼすは列強に非ずして民國か。清朝を倒せるの漢人亦省みて畏るべきなり」と結論づけた。
北京を発ち鉄道で南下し漢口で東に転じ、長江を下り南京を経て上海へ。
いずこの名勝旧跡も惨憺たる姿を晒している。「支那人の前代の遺物を閑却し、寧ろ敵視するの弊、亦こゝにも現れたりといふべきか」。
南京で見かけた「支那兵の行進喇叭に伴うて隊伍整々として過」ぎて行った。規律正しいと思える彼らも「一朝事あるの時、變じて所謂兵匪となり、掠奪を行ふを辭せ」ざるを「耻ぢざるを想ひ、外見の以て其眞相を斷じ難きを感ずる切なりき」と綴った。《QED》